石ころ

安息日の祝福 ②(レビ記23章)

 

安息日は主にさだめられ命じられなければ、人が進んで捧げることは出来ないであろう。
神が放って置くと、日々のあれこれに忙しく休む間を惜しんで働き、いつも疲れて死んで行くことになるのだ。

それらの年月は、主にたまわるいのちの備えの時間であり、主の御愛に安らぐ時であり、造り主なる神、救い主なる御子キリストを礼拝して、限りある命を永遠のいのちに繋ぐための時である。

 

どれほど忙しく働いて世に功績を残しても、それはわずかな年月で色あせて行き、際限なく満足を求め続けて満ちたりることはない。本当に人の飢え渇きを満たすものは神の愛だからである。

 

主が命じられた安息日は創造主を覚えるためにあり、それは永遠のいのちの望みである。安息日は体だけではなく魂の安息であり、日々の計画に忙しい手を止めそれらを御前に陳列して、主のお導きを仰ぐときでもある。

それらをみことばに照らして主の永遠において価値のあるものか、主の祝福にあることかを問うために静まる時である。

 

主を礼拝することは、自分の人生のすべてを明け渡すことから始まる。神を「アバ・父」と呼ぶ幸いによって、すべての世の重荷を御前に下ろして、ただ主だけを見上げるのである。
みことばは時が良くても悪くても、永遠の望みにあることを覚えさせて、確信と新しい力をたまわるのである。

 

主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。(9~10)

 

主はそれぞれに、約束の地を与えて働きをなさせてくださる。その働きの実を喜び楽しむように祝福を備えていてくださる。主にたまわった地の収穫を御前に捧げることは大きな喜びである。それは主が備えていてくださった祝福だからである。その捧げものを主は喜んでくださる。

 

私たちにとって主と共に喜ぶことほど確かな生き方はなく、その祝福は永遠にまで至るのである。そのお交わりはすべてが光の中にあって、キリストの聖さの中なのである。

 

その束は主の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊を献げる。(11~12)

 

私たちの捧げものが神に受け入れられるのは、キリストのゆえである。神は完全に聖であられるキリストを喜ばれるのであり、人のすべての捧げものはキリストのうちに在って受け入れられる。

それはアベルとカインの捧げものとは違って、キリストのゆえに捧げもののすべてが、完全とされるからである。

 

あなたがたは、神へのささげ物を持って行くその日まで、パンも炒り麦も新穀も食べてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である。(14)

 

収穫の喜びを一番に見せたいのは、命をたまわるほどに愛してくださっている御方である。捧げものを創造してくださった方に、刈り取ったものを抱えて飛んで行くのは幼子の心である。そのとき神は、子とされた私たちを喜び祝福してくださる。

 

世には豊作の時があり不作の時がある。主を信じる者も同じ世に生きる時、嵐や疫病の被害を受けることがある。
主に在る者の平安は、ひとえに何でも祈り求めることが赦されている関係である。どんな時もいのちの避けどころを知っていることであり、永遠の約束に生きていることにある。

家が吹き飛ばされても永遠の住まいを持っており、よし田畑が荒らされたとしても、主のマナが備えられてあるのだ。


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