石ころ

携挙(けいきょ)(1テサロニケ1章)


私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(2~3)


この良きものはすべて、教会のかしらなるキリストから出たものである。その信仰、愛から生まれた奉仕の労苦、試練の中にある忍耐も、キリストから流れ出る確信と望みであり、
パウロは、伝えた通りの福音に在って成長しているテサロニケ人の教会を喜んでいる。


神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。(4)


神に愛され神に選ばれた者の証は、苦難の中に在っても変ることなくキリストに安息して成長する姿にある。
これは力と聖霊と強い確信を伴って届けられた、福音から生まれたことである。


あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(6)


苦難は信仰の妨げではなく、信仰者には、聖霊の働きの中で神をより近しく覚える感覚が磨かれ、ひたすらみことばに拠って生きる者とされ、不要なものを削ぎ落とされて聖められる過程である。そこでは、望みのすべてがキリストに染められて行く。


あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(9~10)


まことの神に仕えるようになったキリスト者は、永遠のいのちに至る携挙を明日かもしれないと備えて待ち望む。恐ろしい神の怒りの前に、裁きの地から天に引き揚げられる御約束の望みであり、それは、イエスさまに空中で迎えられる日である。


この世に神の怒りが下る日があることは、黙示録にはっきりと書かれてあり、今は救いのために猶予されている恵みの時間なのだ。
神は愛をもって、そのことを告げる時間を与えてくださっている。だから、私たちはなりふり構わず福音を伝えようとするのである。黙示録の艱難の日があまりに恐ろしいからである。


 創造主のご計画を、被造物である人の頭で量ることはできない。創られた者が造り主を理解することはできない。
ただ、神から遣わされた御子キリストが、使徒たちを通して伝えてくださったことばから、神の計画を知ることができる。


しかし・・神はひとり子のイエスさまを十字架に送るほどに、人の自由を重んじられている。だから、何を信じるかはそれぞれ自分で選ばなければならない。
それでも私はひとりでも多くの方が、この福音を信じて共に救われることを祈っている。イエスさまの十字架はすべての人が救われるためであり、その事実を信じる信仰によって、救ってくださる神の愛の計画があるからである。


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