石ころ

はずかしめられるに値する者とされた喜び

 

罪をあがなうキリストの十字架が、罪人は稀有な恵みであることがすぐに実感できる。それゆえに、天にも昇るほどの喜びを味わうのだ。聖霊に触れられて罪の重荷が取り去られたことを体験した時、

 

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:30)

このみことばが身に染みてわかり、安息して、何にも勝る希望に満ちた喜びがいつまでも留まるのである。

 

 ただ、他人に罪を認めても、自分の罪がわからない人には経験できないことである。正しい人が救われず罪人が救われる、それはなんとも皮肉なことであって、非常に残念なことである。


このことのゆえに神はしばしの間、罪に忍耐してくださるのであろう。救いの実を結ぶために通る愚かさや弱さを・・。

 

イエスさまに、洗いきよめられた足の清々しさを知った者が、再び泥に突っ込んで行かなくても良いのは、溢れるばかりに聖霊の助けを分け与えられ、みことばの保証によって養われて、主の聖さのうちに置かれているからである。

 

妬まなくても、キリストが死ぬほど愛してくださったことを日々知らされ、盗まなくても有り余るパンの満たしを経験して、押しのけなくても永遠の居場所まで備えられていることを知るからである。

 

 サタンは救いの喜びを持ち去るものである。
「そんなことで喜んでいる場合じゃない、油断すると後で酷い目にあうぞ。それは自分で努力した結果ではないか、明日も頑張れ」と、神にたまわった祝福の喜びも感謝も持ち去るのだ。

 

しかし、今、神さまの恵みの喜びに深い感謝を捧げ、明日の主のご計画を喜ぶことは、永久に変わらない神さまのうちに住むことであり、それは変わることのない喜びと感謝が続くことなのである。

 

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(へブル13:8)

今日の幸せに神を認めて安息しないなら、幾ら祝福を受けても、明日をも知れぬ暗闇の格闘が続くのである。

 

「いつも喜んでいなさい」(1テサロニケ5:16)


このことは神の命令であり、救われた者の喜びは、十字架で死んでくださったキリストへの賛美である。救いの現れは希望に満ちた喜びと平安である。

 

使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒5:41)

 

イエスのことばを語ったことで犯罪者扱いを受け、議員の面前で鞭打たれた使徒の喜びこそ、キリストの弟子の究極の喜びである。救われた者に喜びの無い日は一日も無い。


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