石ころ

みこころを悟る(創世記18章)

 

その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろした。アブラハムは彼らを見送りに、彼らと一緒に行った。(16)

 

主の御側に居なければ聴けない。主に近しくいることが人の最大の良い行いであり、みこころを行うための絶対条件

 

主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。
わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」(17~19)

 

すべての国民に対する神の祝福は、アブラハムを通して成された。それは神の選びによることであり、神の正義と公正が行なわれる将来のためである。それゆえに神は、アブラハムにさばきを執り成す働きを与えられた。

 

まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。(マタイ18:18)

 

今も、キリスト者にこの執り成しための権威をたまわっているのは、ひとりも滅びることを望まれない、神のみこころによることである。

 

主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。
わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」
その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ主の前に立っていた。(20~22)

 

アブラハムはみこころを悟ってとどまり、主が語られる計画を聴いていた。彼は主のご計画に参加することから逃げないで、自分の役割を果たそうとした。

それが出来るのは信頼関係が確立しているからである。神に対する信頼関係は、いのちを委ねた所に生まれるものである。

 

アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。
もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。
正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」
主は言われた。「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」(23~26)

 

ある意味アブラハムは主を諫めているようにみえる。それが受け入れられるのは、このことが神のみこころに叶っているからであり、神に対するアブラハムの絶妙の応答は、愛から出たことである。愛は恐れを締め出すからである。


もし私たちが、ただ神を恐れるだけであるなら、何も願うことができないだろう。その行為は神を遠ざけて祭り上げ、神を知ることも、自分を知ってほしいという願いもなく、何も期待していないということであり、それは無視と同じである。

 

しかし、神がアブラハム自身に命じられた時、彼は割礼に即座に従い、ひとり子のイサクをも捧げるほどに従順している。そのことにおいて彼は一切交渉をすることはなく、深い信頼によって自分自身を従がわせた。

 

イサクにある神の良い計画を聴いており、その命令が、すべての国民に祝福を与えるためのものであることを信じたからである。神に信頼する信仰はみこころを悟るのである。


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