神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ──私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。
それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。(1~2)
使徒職とはどういうものかを、パウロは厳かに宣言している。神にたまわった役割がどのようなものであるかを知ることはすべての初めである。
キリスト者はみな祭司でありその勤めがあり、それに沿って今日を生きる者である。
神に選ばれ、永遠のいのちの望みを持っている者の責任は、たまわった聖霊によって命を用いる使命である。それは難しいことではなく、祈りの中でみことばに手を引かれて、今日を生きることであり、永遠のいのちが保証される最も安全な仕事である。
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。
彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(15~16)
みことばを行いにおいて否定するなら「なに一つきよいものはない」とある。それは神の言葉を弄ぶことと変わらず、汚していることなのだ。その人は良いわざに不適格と判断され、良いわざが出来なくなるということである。
みことばは、聖霊によって聴き、聴いたままを語り、ただ従うときに、神の御わざが現される。そこでは御名があがめられ、主の栄光が現されるのである。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1:1~4)
ことばはイエス・キリスト。ことばで天地を造られた、すべてのいのちの主であり、全人類の救い主である。