石ころ

神を愛したことは覚えられている(ヘブル6章)

 

一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、(4~5)


救われたた者は、キリストの十字架に死んで、キリストの信仰によって新しく生まれた神の子であり、聖霊の臨在によって罪から守られ、神との平和を持っている者である。
捨てられることのない神の臨在と、永遠のいのちの保証、世では決して味わったことの無い平安を知った者である。


主の養いは食べ物から休息、成長への導きから、理不尽に対する復讐までみことばが約束してくださっている。
しかし、今のそれはやがてたまわる神の御国の前味わいであり、キリスト者は神の力を知った責任を負っている。


堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(6)


キリストの十字架によって罪をあがなわれ、永遠のいのちの約束を頂いていながら、その神を軽んじて捨てるなら、その人たちを滅ぼさないためには、キリストは十字架刑からもう一度やり直すことになるのだ。それは完全な神に恥をかかせることである。


土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。(7)


御救いに与った私たちは、神のたゆまぬ関わりの中で整えられた土地であり、良い作物をならせるために、聖霊が注がれ成長のための必要はすべて備えられている。


その地には、良心の責めから解放されて神との平和を味わい、いのちの約束に安息し、聖霊の臨在によってみことばに深く親しみ、日々主の御愛を経験するうちに、自ずとみこころに叶った実が成長するように準備されているのである。


嵐が襲っても世の迫害が迫って来ても、イエスさまの御手は危機に差し伸べられ、私たちが叫ぶ前から掴まれていることを知るのだ。困難はイエスさまの御手の温かさを体験する時であり、主に心配していただく甘い交わりとなる。


だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(9~10)


キリストが人となって世に下ってくださり、罪は犯されなかったけれども、人の弱さも葛藤も涙も病も経験して知っていてくださることは、どれほどの慰めだろう。しかも、主は世の一番弱い者を御側に居らせてくださった。


彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)


憐れみ深い主は、神の子にコップ一杯の水を与えたことさえ覚えておられる。それが神を愛する行為だったからである。私たちはそれを覚えてないけれど、神の正しさは覚えていてくださり、それが神の御真実さである。此処に私たちの救いがある。


そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。(11~12)


使徒達はそのようなキリストの守りの中に留まって、あらゆる試練の中でみこころを全うしたのである。私たちの確信は使徒たちが到達した永遠のいのちにあり、私たちが使徒から相続するものも同じ天の御国である。
裁きの座でキリスト者を裁くことばは、世で拠って立っていたキリストのことばとなり、みことばの通りにいのちと成るのである。


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