石ころ

霊の糧、肉の糧(マルコ6章)




「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
この人は大工ではありませんか。(マルコ6:2~3)

イエスさまは、故郷では御わざをなさることはほとんどなかった。「大工ではありませんか」という人は、みことばに耳を傾けることは出来ず、知っていると思った人はそれ以上知ることはない。
神の御子が人となって来られたのは、王宮でも学者の家でもなく大工の家であった。それは人には躓きともなる。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:6)

人はイエスさまがわからなかったけれど、イエスさまには人がよく見える所であった。そこでイエスさまが学ばれたのは、取り繕いのない人の本質、頑なで愚かで弱くて愛おしい迷子のような様だった。イエスさまはそのような両親に、人に、仕えてくださった。

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり・・、(ヘブル5:8~9)

 多くの群衆の様が羊飼いのいない羊のようであることを、イエスさまは深く憐れみ、教えられて遅い時刻になった時、5000人以上の食事の準備を弟子に命じられた。
それは群衆には彼らの求める肉の糧を与え、弟子には主を経験する霊の糧を与えるためであった。
わざによってイエスさまの権威を経験させて、主がどなたかを知るためである。弟子は、主に在る溢れる豊かさを体験して、それを思い出す度に成長して行くのである。

イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。(マルコ6:41~43)


 群衆に肉の糧を備え、イエスさまに触れた者をみな癒されたのは、救い主を知るための時間を備えてくださったのである。
神は信じる人にも信じ無い人にも
生きている間にイエスさまを告白する者は滅びることなく、永遠のいのちをたまわるからである。

イエスが入って行かれると、村でも町でもでも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。(マルコ6:56)

イエスさまの御わざを知らない者には、パンもカナのぶどう酒も単なる肉の糧に過ぎない。それは食べると消えるものであり、滅びに至るものである。
弟子は、イエスさまのお側に居てみこばを聴き続け、御わざを経験して神のキリストを告白するまでになるのである。

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