パリサイ人や律法学者は、イエスさまの宮の行いについて「何の権威によってこれらのことをしておられるのですか、」と、また「誰がその権威を授けたのですか。」と尋ねました。
イエスさまは彼ら自身に気づかせようとされましたが、彼らは愚かで気づくことはありませんでした。彼らは人を恐れ群衆の顔色を常に伺っています。人からの権威によるものは、人を恐れなければならないからです。
そのことによって、イエスさまの権威が天からであることを示しています。
ぶどう園のたとえを、イエスさまはパリサイ人や律法学者たちに話されました。彼らは専門家として振る舞っていましたが、彼らには神のことばを聞く力がないので、たとえで話されたのです。
それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。(マルコ4:12)
イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。
(マルコ4:33)
イエスさまはたとえをもってパリサイ人や律法学者にも、悟りを与えようと忍耐を持って彼らの相手をしておられます。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23:37)
ところが彼らは最後まで悟ることなく、イエスさまのたとえ通りに主人の息子である御子を殺してしまったのです。
人は自分の嵌る罠を相手に設ける者です。イエスさまを褒めて持ち上げ、そうして罠にはめようとパリサイ人たちがやってきました。
神の御子をほめることばを口で語っても、その心は言葉とは裏腹であるとはなんと憐れなことでしょう。心から神をほめたたえることが出来ない者は、なんと憐れなことでしょう。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)
神のぶどう園を、神の宮を神に返しなさい。世の支配を御子に返しなさい。とイエスさまは言われます。
今、私たちにも神のものを神の支配下に置きなさい。握りしめているものを手放して、神に委ねなさいと言われます。
それは神の豊かさの中に信じる者を置いて、神の栄光を現す者となさるためです。
パリサイ人の指導者であるニコデモという人は、夜こっそりとイエスさまを尋ねて教えを乞いました。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:2~3)
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハネ3:6)
人の言い伝えの中でいるなら、神の国には入れないと教えられました。人は必ず、新しい生まれ変わりを経験しなければならないのです。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)
新しく生まれ変わることは、上からの聖霊の働きによるのですが、それを求めることは私たちの選択によるのです。
新しいいのちを得るためには、古いいのちは死ななければならないからです。
救いのための礎の石はイエス.キリストだけです。すべてはイエスさまの十字架の上に築かれるのです。それ以外のいかなる手段も私たちにはありません。
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