人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(27~28)
永遠の贖いがどれほどのものであるか、そのすべてを知る時は、キリスト者が死んだ時である。また、キリストという弁護者を持たない者の罪の裁きの座が、どれほどの恐怖であるかを知るのも死んだ時である。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
それゆえ神は、ひとり子をイエスを十字架にかけるほどに人を愛し、滅びることがないようにしてくださった。
神はなぜこれほどまでに人を愛されるのか・・。それは、教会がキリストの花嫁だからである。キリストを信じるすべての者は、うちにキリストが居られる教会である。
エデンの園に善悪知識の木を置かれた意味が、其処にあるのかもしれないと思った。エデンの園でアダムとエバが造られた時のままでは終わらない、神と人のラブストーリィの始めのために・・。
アダムもエバも肉体の死を通って、キリストの花嫁とされるまでのサクセスストーリー。
すべての子孫が参加する遠大なラブストーリー。神の御子が人となって血を注ぎだして、支払ってくださる花嫁料はすべての人を完全にきよめ、信仰を通ってキリストに相応しい花嫁を得る。
そこで出会う天の夫キリストへの深い感謝の交わり、そこには罪という妨げるものの無い聖いことばの交わりがあり、聖霊により満ち足りる愛の満足がある。
永遠の花嫁を天に迎えるためにキリストは再び来られる。再臨の望みは神の御計画の完成なのだ。