私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(16~17)
この世に於いては「私に倣う者になれ」という言葉は口に出来ない。その到達地点がどれほど優れていても、もっと優れたものが現れるからである。
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(20~21)
パウロの到達したところは、「キリストの栄光に輝くからだと同じ姿」という、天に待つ栄光の望みであった。これ以上のものは人間には未来永劫ない。それゆえ、パウロの命じていることは、みこころそのものである。
この栄光にあっては、あらゆる世の栄光も栄誉も過ぎ去ってしまうものであり、永遠においては何の役にも立たず、むしろそれを頼ることによって、キリストを求める時を失してしまうのみである。パウロはそのようなものを塵芥と呼んで捨てたのである。
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。(7)
私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(10~11)
パウロは切実にキリストによる復活のいのちを求め、それを教会と分かち合うために、キリストの死と同じように、捧げものとしての殉教を求めついに勝ち得たのである。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(12~14)
パウロは、キリストと同じ姿に変えられるまで、その望みにすべてを捧げて「私に倣え、後に続け」と後ろに過ぎ去る世に命を捨て置いて、天を目指して駆け抜けたのである。
天の栄光をたまわることを真に求めることは、どれほどに真摯に、世にすべてのすべてを差し出しても余りあることと、天で待つその栄光を、霊の目によって見てしまったのである。
パウロが到達したところを基準にして、此処から反れることのないように、聖霊の導きによるみことばの深い交わりの中で、日々天を目指して駆けることは、キリスト者の今日もすべきことなのである。
私たちが何処に向かっているのかを知るならば・・、天で待っているものがどのように栄光に富んだものであるかを知るならば、パウロと同じように駆け出すようになるだろう。