石ころ

「私の主。私の神」 (ヨハネ20章)




 聖書をどれほど学んでもイエス様はわからない。その時は、トマスのように言わなければならない。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(ヨハネ20:25)

一人よみがえりの主に会っていないトマスは黙ってはいなかった。トマスは自分の現実をさらけ出して「私は信じられない」と訴えたのだ。
此処で自分を偽って黙っていてはならない。「求めなさい。そうすれば与えられます」である。

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:26~27)

その時トマスは「私の主。私の神。」と真実な告白をしたのだ。
マリヤも「私の主」と言ったように、私たちがとても自然に「私の主」とイエス様を呼ぶのは、個人的に主に触れた経験によるのである。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、(Ⅰヨハネ1:1)

ヨハネは誰よりもお側に居て、イエス様を十字架の終わりまで見ていた。
ラザロをよみがえらせる主を・・
足を洗ってくださる時も、信頼して黙って身を任せていた。
白く輝く御衣に変わってエリヤとモーセと語られる主を見ていた。
最期の晩餐には一番近くでイエスに触れていた。
槍で刺されたイエスの御体から、血と水が分かれて流れ出るのをじっと見ていた。
空の墓に、亜麻布と頭に巻かれていた布が離れて落ちていたのを見た。

ヨハネも墓に落ちていたこれらを見た時に、みことばを信じたのである。見なければ経験しなければ私たちは信じることができない。

「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(ヨハネ20:17)

イエス様の父は私たちの父、イエス様の神は私たちの神。マリヤに告げられたイエス様のこの言葉によって、私たちが神の子であることが保証されている。ただ、みことばに拠るのである。私たちの何かによるのではない。

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)

このことばは今私たちに語られている。今、肉の目によってイエス様を見ることはないけれど、それでも、私たちは日毎にみことばに在る主をじっと見て、聖霊の細い御声に耳を傾けて、生活の中で主の助けに触れて初めて証する者である。

主を知る者はヨハネの証を持っている。今証を持っていないならトマスのように求めなければならない。
そうするなら主は近くし来て、「平安があるように」というお言葉と共に、ご自身を経験するチャンスを備えてくださる。主はそういうお方であるから。主はご真実なお方であるから・・。

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コメント一覧

ムベ
電気屋さんコメント感謝です
啓示・・
上から賜るものなのですね・・。
そのとき、自分の何かに拠らないことが刻み込まれます。
ただ、ただ感謝です。

はい。御前で素直になれれば・・幼子のように。
電気屋
「聖書をどれほど学んでもイエス様はわからない。その時は、トマスのように言わなければならない。」

本当にその通りだと思いますね。
聞いて、見て、触れること
キリストとの付き合いは、読んで得た知識ではなく、つくづく啓示によるのだな~って最近特に思います。

素直になれれば問題の半分は解決している、そう思って過ごしています。
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