御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(12)
キリストのうちにとどまっている者は、皆、みことばの約束によって滅びないいのちを持っているが、キリストの十字架による救いを、受け付けない人の死は永遠の滅びとなる。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(13)
世に生きている間は、キリストがうちにおられる人も、そうでない人も、世のあらゆる事柄の関りの中で一緒に生きており、時に共に笑い、共に悲しみ、共に労して汗を流す。その中に在ってキリストを伝えて行くのである。
其処で、救われた者の責任を果たすためには、自分の救いが明確になっていなければ、立つべき所に立ってキリストを指し示すことは出来ない。
永遠のいのちに有るという確信によって、世で命を惜しむ必要から解かれ、自身を差し出すことができるのである。命を惜しむとは、世のあらゆるものを含むことである。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(14)
人にはいのち以上のものはない。それも、永遠のいのちをたまわった神が、いのち以下のものを惜しまれるわけがない。
みこころにかなう願いとは、みことばの中にあるすべてである。すべての備えは、神が私たちのうちに居てくださることである。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(15)
私たちは主にあってどんなことでも出来る。
ただ、日々みことばを導く聖霊によって主を知り、信仰の成長に応じて、みこころを示されるようになり、本当に何が必要なのか悟る訓練を受けなければならない。
願いが成就した日に、その願いのために今日まで導かれて来たこと知り御前にひれ伏すのである。