石ころ

神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マタイ27章)





そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27:50~51)


 祭司のひとりだけが、年に一度神さまと出会う至聖所。神と人を隔てるのは至聖所の垂れ幕。入る祭司の足には紐が括り付けられていたという、打たれて死んだ時に引き出すためである。至聖所はそれほどに恐ろしく聖い場所。
その隔てがイエスさまの十字架のあがないによって、神さまによって裂かれて無くなった。今イエスさまを通して入る者は、何時でも出入りできる祈りの場となったのだ。

 受洗クラスで、このみことばに出会ったとき心が震えるほど感動した。深い喜びは今日までずっと変わらない。
罰せられているように思える時も、責められているように感じる時も、このみことばを思う出すと平安を得る。此処から出たことなのだと、身を避ける場所があると・・。

聖書もろくに知らなかったのに何がわかったのか・・と不思議だけれど、それは知識によることではなく、私の霊がみことばの証拠を見つけて安心したのだ。
それからは、信仰のこと、暮らしのこと、子供の進路のこと、日々の喜びも苛立ちも怒りもなんでも、祈りを通して主に相談した。

 もともと、取り繕って祈ることに意味のないことは分かっていた。主はすでに心を見て居られるのだから・・。取り繕いは、力ある方に出会っていながら、肝心なことを相談しないようなものなのだ。
みことばによる確信は脅しを受けない守り。揺れ動く心は、みことばを読み返すことで平安を得る。それは永遠に変わらないから。

 次第に世的なことの祈りは必要はなくなって行った。なぜなら、求める先に備えられていることを経験するようになったからである。
そうして、主が喜ばれることをしたいと願うようになり、熱心に信仰書を読み、テープを聞き続け、断食をしたり、トラクト配布も身の回りから広がって、遠くまで配って歩き・・、それは手当たり次第にやっていたが、ある時・・。

主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5:15)
「だれがわたしにささげたというのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。」(ヨブ記41:11)

 理不尽と思える出来事の中で、有無を言わせぬみことばだった。そのとき私は初めて「神の権威」を知ったように思う。理屈を越えた存在、人の善悪を越えた権威・・、それまでの何でも話せる関係だけではなく、神を恐れることの経験だった。

あの時、私は主を求めて真っ直ぐだった。しかし、「何が良い事で、何が悪いことか、それを誰が決めるのか、」と言わた気がして黙った。
そのことを通して、「主に聴くこと」と「主を待つこと」を教わったのだと思う。先立つのは主であることを・・。

しかしご真実な主は、涙の中でも一日中みことばを通して交わりの甘さも経験させてくださった。私はこのことによって主の「NO」を経験し、的を射る信仰の大切さを教わった。
今も失敗をするけれど、学びのチャンスでもあることも知り、そこで主が親しく語ってくださることも知っているので、失敗はただ恐いものとは思わない。

主は良い方である。ただ私たちに良い事を準備していてくださる。すべてを益として、主を知ることを備えてくださるお方。
祈りのお交わりはいつも同じだけれど知性の言葉数は減った。自分のことは「イエスさま」のひとことで終わってしまう。主の「NO」を察すると、何を置いても「アーメン」と服する。それは私を導く「ムチと杖」であり、このことで自由だなのだと知っているからである。

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