そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:2~4)
イエスさまの教えてくださった祈りは、赦しのための条件は何もつけられていない。
「私たちの罪をお赦しください。」だけである。これはとっても大切な事で、十字架によるあがないが前提となってのことである。
神さまの無条件の赦しを経験して初めて、人を真に赦せるようになる。お弟子には先取りであったけれど、聖書のことばは子孫である私たちへの備えだからすべて十字架が前提となっている。
これが、「我らに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」なら、私たちの赦しが前提条件となって、その結果赦されるという取引になってしまっているのだ。それは神様が、人の赦しのために準備してくださった十字架の否定である。
人は誰であっても、神様の赦しのレベルまで赦すことなどできない。自分の不完全な赦しと交換に御国に至る神様の赦しを得ることはない。もし、それがあるなら御子の十字架は意味がないのである。
わずかな違いのようであってもそれは天と地の違いであり、十字架が問われていることである。
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