石ころ

天からの雨で潤っている地(申命記11章)

 

あなたはあなたの神、主を愛し、主への務めを果たし、主の掟と定めと命令をいつも守りなさい。(1)

 

 もっとも重い罪は、いのちの作者である神を無視して生きることである。愛によって守り導くみことばに耳を傾けず、自分の思いのままに生きて滅ぶことである。

 

今日、心得なさい。あなたがたの子どもたちが、あなたがたの神、主の訓練を、その偉大さを、その力強い御手と伸ばされた御腕、そのしるしとみわざを経験し目撃したわけではないことを。(2)

 

イスラエルが神から受けた訓練とその偉大な御力、エジプトを出る時に成された数々の御わざ。子供たちがそれらによって神を経験していないことを、常に心得ていなければならなかった。彼らが神に信頼して生きることの危うさに、助けと備えが必要なのである。

 

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(ヨハネ14:11)

 

不信仰な者が神を礼拝するべき方と悟るのは、神の愛と御力を人生に経験することに拠る。聖霊の導きによって目の前にある助けが偶然でもなく、人から出たものでもないと、神の備えと恵みを悟り愛と奇しい力を経験する中で、主に委ねて従う信仰が成長して行く。

 

主がエジプトで、エジプトの王ファラオとその全土に対してなさったこと、
またエジプトの軍勢とその馬と戦車に対してなさったこと、すなわち、彼らがあなたがたの後を追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主がこれを滅ぼして、今日に至っていること、(3~4)

 

主を経験した者には伝える責任がある。生かされた命は主のものであり、子らを生かすために用いる命である。まして、神の働きによって守られた祝福の民であることを伝えるのは責務である。

 

これら主がなさった偉大なみわざのすべてを自分の目で見たのは、あなたがたである。
あなたがたは、私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、(8)

 

伝えることは、みことばに聴き従って生きるいのちのことである。エジプトのように人に倣って自分の計画を生きるのではない。その命は頑張って滅びに向っているのだ。

 

なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。
しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。(11)

 

そこには主の良き計画による備えがあり、主の祝福の言葉によって生きる地である。人はどんなに頑張ってもすべてを生かす雨を降らせることは出来ない。命を生かす方は創造主なる神なのである。

     

そこは、あなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。(12)

 

神のまなざしがある所には愛と憐みによる備えがある。なぜなら神は愛であり真実な方だからである。ひとり子をたまわるほどに愛してくださった眼差しである。

 

 イエスが十字架の裁きの場で、恐怖によってイエスを「知らない」と三度否定したペテロを見られた眼差しは、ペテロを号泣させて彼を癒やした。それは眼差しから溢れ出る愛に拠ることである。神の眼差しを感じる時に、弱さゆえの失敗は涙をもって癒やされる。

 

キリスト者には主のまなざしのような聖霊が共にいてくださる。祈りにならない心のうちをも見ていてくださり、時にかなったみことばを思い出させて癒やし、力ある助けとキリストの平安を備えていてくださる。

 

もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、(13)

 

このことは、主の愛の中に留まることである。自力で神の命令を全うできる人はいない。神を愛することが出来る人はいない。人はみな罪の中に在って、その中から出て来るものは、神の義とはあまりにもかけ離れているからである。

 

それゆにキリストによる罪の解決をたまわったのである、完全な義と従順を成し遂げて十字架に死に信じる者の義を完成してくださった。墓からよみがえったキリストを信じる者に、新しい人生をたわまわったのである。

 

そうして救われた感謝に溢れて従順を願う者に、助け主なる聖霊が住んでくださり、聖霊は私たちの霊のうちに罪を避ける備えをしてくださっている。

 

十字架の血潮に罪を洗われた時から人は不正を嫌うようになり、汚れを避けるようになるのは聖霊の備えである。貧しさによって盗む必要が無いように必要が備えられ、愛に飢えて貪る必要がないように、神の愛を解き明かして心を満たしていてくださる。

 

その中で神を愛し信頼して従うことを願うのである。それゆえ、御救いに与った者は新しく生まれた者として、みこころに生きることが可能なのである。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)

 

わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。(14)

 

主は敵の前で、力と聖さの油を注いで働きの必要をすべて備え、祝福していてくださる。そのとき私たちは、地から主が選んでおられる良きものを収穫する働きをたまわるのである。


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