石ころ

キリスト者は主に訴える者




 クリスチャンになった当初は、教会で印刷されたお祈りの課題を祈り続けた。団体の祈祷課題のプリントなど沢山の課題があって、寒い頃はストーブの前に丸くなって祈り続け・・、祈ったその後どうなったのかとずっと気遣ったり、何時も同じ名前が書かれていて、出会ったこともないのに親しみを感じたりしていた。

しかし、ある時から違和感を感じるようになった。「なぜ、自分で祈らないのだろう」と・・。「勿論、祈っている。」と言われるだろうけれど、それなら、主に信頼し静まって待つべきではないかと・・。
主は、御真実なお方である。御名を通して祈る時、誰であってもどんなことでも、訴えを聞いて親しく交わってくださる。

 聖書のことをお話しした方に、初めは何時でも何でも「祈って」と頼まれると祈ってあげていた。主は、祈りを叶えてくださったが・・。
ある時それも違うということに気付いた。だから、その後の方には「自分でイエスさまにお祈りすると、どんなことでも、ちゃんと聞いてくださるよ」と教えてあげた。イエスさまが祈りに応えてくださっていることを伝えてくださった。

本当にイエスさまに出会った人には、仲介なんか要らないのだ。イエスさまとの間に入るこで邪魔をしている。
生活のことも、病気のことも、家族のことも、仕事のことも、全部イエスさまに直接話して、主と二人きりの密室の関係を経験することは大切である。祈り方なんか問題じゃやない。そりゃそうだ。イエスさまが一番良知っておられ、本人が一番困っていることを詳しく話すことができるのだから。

 人の憐れみや同情や慰めに互いの時間をかけても、それは下手をすれば共依存でしかない。自ら、力在る方のみことばに助けの根拠を探し求め、問いただすような関係を築いて行くなら、本当の脱出の道が開かれる。人ではなく主に訴え、主に解決を求め、主の祝福をねだるコツを掴むからである。

人に時間をかけて訴えるけれど、イエスさまにはどれくらいの時間交わっているのだろう・・と思うことがある。
それが面倒臭くて、人に祈ってくださいと頼むことは、主に実に失礼なことである。

 困難にある方を、主のみこころが分かって助けるのは良いけれど、主の良いご計画を邪魔しているのではないか・・と気遣うことも必要である。主が深みへと追い込みをかけておられるのに、間で余計なことをしては台無しになる。

キリスト者は主に向かってすべての必要を訴える。人に向かっては何も言う必要は無い。聖霊が、必要なときは執り成しの祈りを命じられる。そのときにそっと影で祈るのである。
主に出会った者はもう主に背負われた羊である。守りはすでに完璧なのだから・・。

 祝福が届く一時の間、「武士は食わねど高楊枝」といかないものか。当てのない武士でさえこう言うのに・・、まして全能の神の子とされた者なら・・、これはキリスト者のプライドの問題である。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(詩編91:14~16)


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