そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5:5~7)
「はい」ではなく彼の口から出た言葉は言い訳だった。其処で大勢の人々と言い訳を共有して38年経ったのだ。そのような弱さにも、イエスさまは御目をとめてくださる。
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(ヨハネ5:8~10)
男はイエスさまにいやされて立ち上がり歩き出したが、「安息日に癒されるべきではない」と責められた。
ユダヤ人たちはイエスさまの愛の御わざを見ながら、自分も人も清められる事も癒される事も拒むのは、イエスを安息日の主と礼拝したくないからである。
その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」
しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。(ヨハネ5:11)
男はイエスさまを知らなかったのだ。イエスさまのみことばがなければ、体が癒されても救いは不完全なのだ。体は必ず一度死ぬものだからである。
その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:11~14)
イエスさまは再び彼に来てくださり、戒めのみことばによって導かれた。一人の罪人に対する神の熱心である。私にもこのように来てくださったのだ。
御わざを受けみことばを聞いていながら、その聖さに留まらないなら救いはもう何処にもない。イエスさまに出会ってなを不信仰に堕ちるなら、救いはもう何処にもない。
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。(ヨハネ5:15~16)
彼はイエスさまを証するが、それは最悪のタイミングであったようにみえる。その後イエスさまはいのちを狙われるようになるからである。
しかし、このことを通してユダヤ人に、神の子としての証、永遠のいのちと裁き、再臨による死者のよみがえりをお語りになった。
福音を最悪のタイミングで、最悪の相手に語ったのではないかと思う事がある。しかし主が知らせてくださったなら、すぐに伝えることは従順である。
イエスさまは彼に語る事を禁じられていない。すべてはご計画によることであり、イエスさまは十字架に向かっておられる。
何時、何をすることが最善なのか人は知らない。でも、主は始めから終わりまですべてご存じである。此処に私たちの平安がある。最善以外はなさらないからである。
彼はイエスさまを知らずに救われた。それは彼の何かには拠らず、ただ「子がいのちを与えたいと思う者」だったからである。
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ムベ
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