でも、すべてのことに「主よ。介入してください。」と祈るには、ひとつの覚悟が必要ではある。それは結果が私の思い通りでなくても、感謝をして受け入れること。いや、祈るときすでにすでに手放して祈っているから大丈夫。主はあなどられるようなお方ではないことは少なくとも知っており、だからこそ祈るのだから。もし、私の要求に応じるだけのお方であったなら恐くて頼れない。祈る意味さえない。神様のレベルが私ごとき者と同じということになる。ああ、それは何と恐ろしいこと!
私以上に私をご存じで、私の必要をもっともご存じのお方。唯一、私の信仰を守っていてくださるお方。また、私の様な者でもその用い方をご存じのお方。私は御手によって造られた者だから。私は主のものだから、主は私をご自身の思いのままに導く権利を持っておられる。だから主にこの身を委ねることによって得る私の大安心。
「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ64:8)
「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」(エレミヤ18:4)
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