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石ころ

お葬式

 彼はやりたいことをして、自分で選んだ人に看取られて死んだ。お葬式で彼を褒めた人は、司式中の天理教の祭司だけだった。

 しかし、彼は、私が小学校で必要だった木琴を買ってもらえなくて、木ぎれを拾ってきて叩いているのを見たのだろう、ある日、木琴をプレゼントしてくれた。それはみんな持っているような紐でつないだ上等の物ではなく、釘を打ちつけた物で子どもの目にも安物だと分かったけれど、私は嬉しくて嬉しくて得意満面で学校に持って行った。先生は私の木琴を見ると教壇に持っていって、「買うときには、こんな物を買わないようにしましょう。良くない物です。」と言った。私たちの頃にはこんな教師も居た。私は決して豊かではないのに、買ってきてくれた彼にとても済まないと思った。私自身にとっては、彼とはそんな昔からのつながりがある。彼は義理の叔父であり、あるときは父親代わりだった。

 親族のお葬式という場は、私には自分の肉の姿を見る辛いとき、信仰生活の中の嵐の日となる。でも、その見たくない自分の姿が私の事実であることは、時間と共によりはっきりする。主に対する思いでしてきたことなら、なにをしてもそれはその時限りであり、誰に向かって言い立てることでもなく、すべて主にあって終わっていると、よくよく分かっているはずであるのに、人の言葉や様子に反応して、心の底のヘドロのようにいろんな思い、止めようもないうめきのようなものが吹き出してきて、自分の中ではげしい葛藤が続く・・。そんな時まるで今までの平安なんて、絵に描いた餅のように虚ろになってしまう。

これが本当の私の姿であり、こんなどうしょうもない私のために、イエス様の十字架のがあるのだと、「ハッと」我に返ることができたことは本当に幸い。本当に感謝なこと。一方的なイエス様のお守りを痛感する。幾たびも幾たびも私は世の波間に沈み、ヘドロを飲み、主の差し出された御手にすがって引き上げられる。主に触れられ御前に静まるとき、たちまちすべてのこだわりは消え、洗われ清くされる恵みをいま味わっている。
「主よ。感謝します。」ただ、それだけ・・。
 

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