石ころ

負うべきリスク




アメリカンフットボール選手が謝罪する痛々しいテレビを見た。昨日のテレビはそればかりだったから・・。彼は必死で責任を取ろうとしており、その姿は好意的に報じられている。
ただ、最も大切なことが論じられていないと思った。

質問も反論も出来ない環境に置かれて、「それまで好きだったフットボールが好きではなくなった。」という言葉に、「それならなぜ?」という疑問を感じた。
大学で大きな違和感を感じたのに、方向変換できなかったのはなぜなのか。中学生ではない、もっとも深く考えられるはずの最高学府の人として・・。

なぜ、唯々諾々と楽しく無いことに盲従したのか。事の善悪が判断できないまでにコントロールしたものは何なのか・・。
キリスト者は、聖書に拠って生きることが唯一のプライドである。スポーツマンはスポーツマンシップがプライドであろうに・・。

 何時でも向きを変える自由のない場所とは、人格を買い取られており奴隷である。
神さまが造られた人は選択の自由が与えられた。いのちを与える「いのちの木」と、死をもたらす「善悪の知識の木」を植えられたのはそのためである。「善悪の知識の木を選ぶな」と警告はされたが、人にその自由を与えられた。

そうして、最悪の選択をしたアダムのために、御子の命をもって十字架を備え、もう一度永遠のいのちを与えられたのである。
この事実を信じることの自由も与えられている。人の自由にはそれほどの犠牲が払われたものなのである。

彼がなぜ自由を失ってしまったのか、その自由を何時、何と取り替えてしまったのか、違和感を感じたときに、方向変換できなかったのはなぜなのか。それを考えることが大切な事である。
生きている間ならいつでも選択を変えることができるように、神さまは造ってくださった。
自由を失ったリスクを負うべきではない。自由のためにリスクを負うべきなのである。

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