石ころ

白い衣を着てキリストの御足跡を歩む(黙示録3章)

 

サルデスにある教会の御使いに書き送れ。神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」(1)

 

死んでいることに気づいていないのは驚きだが、死んだものは自分が死んでいることには気づかない。生きているからこそ、死んだ状態を見分けることができるのだ。
この教会は、形式的には変わらぬ儀式が行われているのだろう。キリストを愛する感謝にあふれたものではなく、みことばが中心でもない抜け殻のような儀式である。

 

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。(2)

 

みことばに耳を傾ける者はいたのだ。目を覚ました者が訴え叫ぶのはみことば。眠る者に忍耐をもって語り続け、死にかけていている人を力づけるためにできることは、聴いたことばの望みを伝え続けること。主がその役割を全うしたと認めてくださるまで・・。

 

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。(3)

 

初めの信仰はみことばを喜んで求め、愛するキリストを知ることに熱心だったではないか。聴いたみことばによって平安を得て、御約束に安息したのではなかったのか・・。
今、終末のこの時代に怠惰に落ちた信仰を悔い改めて、みことばに聴き主を愛する愛を取り戻せ。主の時は明日かもしれないのだから。

 

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。(4)

 

教会は運命共同体であれと思っていたけれど、その実態がどうにもならないときは、主がご自分とともに歩む者を選り分けられるのだった。
しかし、キリストがそれを望んでいたわけではない。彼らのためにも聖い血潮を流してくださったお方が、痛まぬわけがないのである。それゆえ、悔い改めよと語らせておられる。

 

白い衣の彼らは、子羊の血で罪を洗って雪のようにされた者である。すべての保証であるみことばに従順し、キリストの御足跡を行く者である。「ふさわしい」とされたのはいつも約束のみことばを身に着けているからである。

 

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。(黙示録22:14)

 

勝利を得る者はこのように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(5~6)

 

キリストによって義とされ、滅びることのないいのちの約束をたまわり、やがて、晴れがましく天で名を読み上げられるのだろう。御父の前で・・、
ただ憐みによってたまわった恵みゆえに、一体どんな顔をして立てばよいのだろう・・、いや、すっかり世の涙をぬぐわれた者は、曇りのない喜びの中に真っ直ぐに立たせられる。

 

そんなことを思いめぐらせることができるのは、聴く耳のある者に御霊が語ってくださる、神の愛とキリストの完全なあがないを、絶えず聴き続けているからである。


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