石ころ

モーセはひれ伏した ①(民数記16章)

 

レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、
モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。(1~2)

 

みことばを聞いて直ぐに集まり、働きのために一致して立ち上がることはほとんどない。それは、さまざまな葛藤に対して個々に勝利を取り、大切なものを捧げる勇気が必要だからである。

 

しかし生まれつきの肉から出て、みことばに反発する言葉に一致と団結が生まれることは容易い。それはみことばに服従することを嫌う感情が、目に見えるあれこれを持ち出して、立ち向かうエネルギーを持っているからである。そのエネルギーは神に逆らう悪霊のものである。

 

自分たちの思い通りの言葉が聞けないとき、語る者に向かって攻撃するのは今も昔も同じである。肉は霊である神の言葉には服従できず、怒りは神の言葉を語る人に向かうのである。

 

彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(3)

 

人は誰でも心の奥深くに愛を求めている。それも永遠に変わることのない、無条件な神の愛に飢え渇いているのである。神に愛されるモーセに対して、彼らの肉から妬みが噴き出すのである。それはアベルを殺したカインの妬みである。神がカインに言われたように、彼らはそれを「治めなければならない」のである。

今はキリストに叫ぶことができる。主は助け主を送ってうちに住まわせ、みことばに導いて主の愛を解き明かし、従う者に神の愛を味合わせてくださるのである。

 

アブラハムやモーセや、使徒たちパウロを愛して用いる神の愛は、全人類を愛し受け入れるために、ご自身を知らせて導くいのちの道なのである。

神のことばに仕える者を受け入れることは、神を受け入れることであり、彼らを迫害することは、神を迫害することであり福音を否んで、御子をたまわるほどの、神の愛による永遠のいのちを失うことなのである。

 

モーセはこれを聞いてひれ伏した。(4)

 

モーセが神を恐れて、地に倒れるようにひれ伏す様子が目に浮かぶ。この執り成しようもない愚かな言葉の結果を見るからである。
神の選びに従順することのなく「分を越えている」ことに未だに気づかないことに、彼らを執り成して来たモーセは絶望したであろう。

 

モーセが彼らに伝えていない神のことばがある。神がモーセとの関係の中で語られた言葉である。モーセは交わりの中で多くの言葉を主に語り、主から多くのことを聞いていたであろう。彼らはモーセと神のことばのすべては知ってはいないのだ。

 

「わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」(民14:12)

 

彼らは、時の神の怒りとモーセの執り成しを知らず、今、モーセを裁いて神に立ち向かうことは恐ろしいことである。執り成されて長らえた命と知らず、祈られて生きる者であることを悟らず、神に近しく居ながら、自分を弁えることができないことは憐である。

 

明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」(7)

 

モーセは、神が誰を選ばれるか見なさいと彼らに言った。神の選びに対して反抗することは、それがどのような人であっても分を越えることであり、それは不従順の罪である。
人は、人の権威や見た目によって肉を納得させるが、みことばは聖霊の導きによらないと、納得できないのである。神は霊だからである。

 

モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。
あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。(8~9)

 

主に引き寄せてくださったこと以上の栄誉が他にあるだろうか、主に仕える光栄以上の恵みがあるだろうか。主が与えてくださった分に満ち足りることないのは罪であり、それは主に逆らって立つ欲望である。

 

こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。
事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」(10~11)

 

人を選ぶのは神の権威に拠ることであり、その人が人の目に叶う者であろうと無かろうと、神がアロンを選ばれたのである。
しかし、神はあえて人の好まぬ者を選ばれることがある。それは従順を教えて聖め、みことばを受け入れる時に祝福するためである。

 

時が良くても悪くても神の言葉を直截に語るなら、人の感情は自分を庇うものであり、聖霊に触れられていなければ謙って従うことは難しいのである。

愛されていようと嫌われていようと、モーセは主に命じられたことだけを伝えて自分役割を果たす。それは、神との関係が常に変わることなく、確立していなければ出来ないことである。

 

人となられたイエスは、いつも山に登って祈っておられた。罪の世での痛みを癒やすために、御父との、親しいお交わりを楽しんでおられたのだと思う。
イエスほど孤独な人はいない。罪のまったく無い方を、どうして罪の人間が理解したり、心を一つにして交わることが出来るだろう。その間には永遠のいのちと、永遠の滅びを分けるほどの深い淵があるのだ。

孤独を感じる時に「イエスさま」と口にすると、深い慰めと元気をいただくのは、主が良く知っていてくださるからであろう。それゆえにキリスト者が孤独に悩むことはない。

 

モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「われわれは行かない。(12)

 

彼らがモーセを拒絶したことで、それまでの執り成しは無になってしまった。彼らが口にした言葉を、神が聞いておられる。

サタンも聞いて不信仰な言葉は足台となり、心に張り付いて離れないのは、その言葉が悪魔どもには心地良いからである。また、不信仰な言葉の棘は聖霊を痛めつけるだろう。

 

逆に四面楚歌の中で、信頼して口にするみことばはサタンを追っ払い、主に信頼する者たちに力を得るための食卓が備えられる。

そう、聖霊の旨酒に酔うような、永遠に醒めることのないいのちの祝宴である。それは主を告白するみことばを語るたびに、繰り返されていることである。そこで見ているものは、約束の地の希望であり、顔と顔を合わせて主に見(まみ)える歓喜である。


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