石ころ

主のいのり (2)





聖書に書かれている祈り
父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。(ルカ11:2~4)新改訳


教会で、そうして私も祈ってきた「主の祈り」

天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン


その違いに愕然とした。以前から違和感を覚えたことはあったけれど、権威あるいのりでもあり・・となんとなく過ごしてしまっていた。
しかし、「我らに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」
人の赦しによって罪が赦される此処には十字架がない!なぜこのような入れ替わりが行われたのだろう。

くどくても罪の赦しは、罪なきイエス・キリストの十字架上のあがないによることである。それを受け入れる信仰によってのみ人は赦されるのである。それのことには欠片も混ぜものがされてはならない。それは主のわざを汚すことであり、十字架を否定する悪魔のわざである。


イエス様を知ることによってすべてが新しく変えられ、赦しを自分のものとして受けたとき、神の与える平安によって赦す者とされゆくのだから。
「皆、赦します。」この宣言によって、「赦している」ことを明確に確信するのである。


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コメント一覧

ムベ
candyさんコメント感謝します
「主の祈り」は、ルカ11章の聖句と違っていて、ひとつの言葉が前後を逆にされたことで、十字架が消されているということが問題なのです。

「私たちの罪をお赦しください」
は聖書に書かれて居るとおりに、初めに来る言葉でなければなりません。それは十字架の無条件の赦しを求める祈りです。

私たちはイエス様の十字架の完全な赦しを受けて、その愛によって私たちの生まれながらの頑なさも変えられてゆき、すべての人の罪を皆赦すことができるようにされます。
そうして
「私たちも私たちに負い目のある者を皆赦します」と心から祈ることができるようにされるのだと思っています。

「我らに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」
これは人間同士の宗教的な取引で完結してしまって、見事に十字架が消されています。
この祈りには神様は関与されないと思います。神様にはイエス様の十字架の血によらない赦しはありませんから。
candy
父よ、とはじまる、この主の祈り。
父よ、と呼ぶのですから、御子の御霊によって祈る祈りであります 

「我らに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」

言い表す言葉で、そのすべてを表すことはできませんが、
人も思いでは決して知りうることのできない、主の赦しの深さ、その痛みの大きさを十字架を負うことを通して知らせてくださいます。
そしてこの祈りこそ、十字架を負わずして真実に祈ることができない祈りです。

あの十字架上でのとりなし、
「父よ彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのかわからないからです。」と祈られる、イエス様の祈りのただ中に引き寄せ、共に座るように招かれます

そして、他者の罪を赦すということと同時に、自らの高慢さの赦しを主に求めることは、一つです。自分の内には、本来人を赦すなどという、権利も何も持っていないのです。

十字架から溢れ流れる祈りは、御心に従い、さらに死に至るまで、自らを低くする主の霊に満たされることです。

それこそ、 人が真実に解放され、

全ての憎しみから、敵がもたらす全ての呪いの力から、その人を完全に自由にするのです。

真理はあなた方を自由にするとある通りです。




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