石ころ

混ぜもの(申命記22章)

 

ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種と、ぶどう畑の収穫全体とが、聖なるものとして取り分けられてしまうことのないように。(9)

 

蒔いた種が良い行いであろうと人の知恵であろうと、それが神から出たものでないなら人の不完全が混ざったことによって、聖い神への捧げものとはならない。主が「混ぜてはならない」と命じられるのは、罪人の目には汚れが見えないからである。

 

人の世では「結果良ければすべて良し」であるが、神が問うておられるのは完全なみことばへの従順である。それこそ唯一の聖なるものだからである。

世では、みことばに聴き従うよりもっと効果的な方法は幾らでもある。みことばに少し人に寄り添う言葉を混ぜるだけで、多くの人に受け入れられ事はスムーズに進むものだ。

 

肉は霊に逆らうものであり、純粋なみことば信じない人の反発を生じさせる。しかし、主が此処で見ておられるのは、キリストのくびきを負う者に在る信頼からの望みと喜びである。それは人を見ているのではなく主を見上げての行いであって、救いは神のわざであることを知っているのだ。

 

牛とろばとを組にして耕してはならない。(10)

 

牛の歩みとロバの歩みは違う。キリストは遅々とした我らの歩みに寄り添ってくださる。人生の道々にご自身を解き明かしてくださる御声に聴き入り、聴いたことばに拠って生きる永遠の望みと喜びは、人のほめことばや成功に遙かに勝るゆえに、キリストの平安のうちに、時が良くても悪くてもみこころを行うのである。

 

キリスト者の行動が「神から発し、神によって成り、神に至る。」なら、世の評判や成功と神のみこころという、釣り合わぬくびきを負い続ける事はなく、ただ主に信頼し一日一日を聖霊に聴き、満ち足りてみことばに導かれて生きることになる。なぜなら、愛の神が共にいてくださるからである。

 

羊毛と亜麻糸を混ぜて織った衣服を着てはならない。(11)

 

主はそれぞれの種に従ってそれぞれを創造された。一つとして同じものを造らず、皆違った役割を持っているのは、神の創造の妙であり神の知恵の無限の現れである。

人は工場で同じ物を造り出すことは出来ても、すべてが違っている物を作り、それぞれに個性的な働きをさせることなどは出来ない。人は何事にも限りのある者でなので、主に聴き主の知恵に従って生きることで完全になれる者である。

 

違っているものを同じように扱うことは、みこころに叶ったことではない。男も女も、あらゆる人種も皆同じとすることは間違っている。神はそれぞれを違ったものとして造られたからである。それぞれに負う役割があり、それぞれの強さや弱さがあり、そこに尊敬したり感動したり、助け合い補い合う喜びがあるのだ。

何をどのように用いるのかは、創造主なる神がご存じであり、主に聴き従う時に人は最高の働きをする。みことばに心を明け渡して、神の完全を求めて生きることは聖霊の助けによって可能なのだ。

 

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)


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