神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。(1)
神がノアたちを祝福されたことによって、その子孫である私たちが今日存在している。ノアの信仰によって、みことばの通りに人は地に満ちて行った。
たったひとりの信仰なんてなんの役に立つだろう・・、そんな思いになることがある。しかし、ノアを学ぶ時「神にはどんなことでもできる」ことに気付かされる。
あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。(2~3)
神はその時すべての生き物を人の支配に委ねられた。この時から、人にはこれらを治める責任がある。
その命をとって食べることを許されたことは、創造主に在る命の権利が、一部人に移譲されたのである。
ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。(4~5)
血のままで肉を食べてはならないのは、血は命であり、命は神が創造されたものであるからである。
地上の生きものが滅ぼされた後に、神に選ばれ残されたものの肉を食べることが許された。
生きるように残されたノアたちと、滅びた無数の命・・
人を生かすために、流されて行く生き物の血・・
それは神の痛みであり、創造者にとっての犠牲を伴うものであった。その事実は軽んじられないように、心して覚えているべきことである。
人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。
あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ。」(6~7)
すべてのものが滅ぼされたことは、神の聖と義によることである。滅びに至る罪と信仰による命は分けられたが、多くの滅びの後に今生きているという事は、どんなに昔のことであっても、個々にとっても無関係ではないのだ。
血の戒めは、これらの命を覚えるためのものであり、どのような命にも無感覚であってはならないことが教えられている。それは、人類が互いを尊重して赦し合い、忍耐して愛し合うことに繋がることである。