石ころ

いのちのパン ①(レビ記24章)

 

主はモーセにこう告げられた。
「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。(1~2)

 

純粋なオリーブ油のともしびを絶やさないことは、キリスト者の信仰生活においては、聖霊の導きによる、みことばの光の中に留まっていることである。
それは寝ている間も、起きて働いている間も、遊んでいる時も霊のうち在って、望みを実現する永遠のいのちである。

 

アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。
彼はきよい燭台の上に、そのともしびを主の前に絶えず整えておく。(3~4)

 

アロンは幕の外であったが、今、キリスト者の霊のうちには三位一体の神である御父、御子、聖霊が居てくださる。それはどれほど光栄なことであろう、肉の目には見えないけれど、霊はいつも安心して喜んでいる。

 

信仰者は自分のうちにあるキリストの輝きを、信仰によって見ており、聖霊による確信に在って、世の言葉に惑わされることも、世の状況に絶望することや脅されることもなく、滅びの世の生きて、すべての人の避け所であるみことばを、掲げ続けているのである。

 

あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。
それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。
それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。(5~7)

 

キリスト者が捧げるパンはイエスのことばである。それは朝ごとにたまわる、キリスト者のいのちの食べ物であり、また、聴いたみことばを御前に捧げて、従順をもって礼拝するのである。

 

かって、神のために人が準備して供えられていたパンは、今は、キリスト者が主にたまわって、主に養われ成長して行くものである。

それは、なんという心強い恵みであろう。主が私たちのパンの心配をしていてくださる。明日を心配する必要はなく、永遠までの望みに溢れて喜び、御名をあがめつつ生きるのだ。

 

彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。(8)

 

絶えず整えておくものは神との関係であり、養い育てるみことばであって、従い行く今日の居場所である。

何ものにも代えられないキリスト者の宝は、キリストにたまわった永遠のいのち、この望みにあって病も、迫害も、嘲りも、死も、世にクリスチャンを脅すものはないのだ。

 

これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。(9)

 

祭司とされて主に仕える私たちにたまわっているパンは、いつも新鮮ないのちを与える、主との甘い交わりのパンである。主の養いは少しも変わることは無い。神が祭司の取り分を守って養われるからである。


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