石ころ

使徒の働き⑪ (8章)

 

 サウロ(パウロ)は、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(1)

 

迫害によって散らされた弟子たちが、行く先々でキリストを宣べ伝えたことによって、福音は広がって行った。

 

敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。(2)

 

ステパノがどんなに愛さた人か想像ができるので、その感情は良くわかる。しかし、ステパノは喜んで欲しいと思ったかも知れない・・。
みこころを全うして天にゴールインしたことを、ずっと側にいてくださった主を、一緒にほめたたえてほしかったのではないか・・と思った。

 

 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。(5~6)

 

幼い時に教会学校に通っていた人は、教会から離れた期間があっても救われる方が多いと聞く。たしかに彼らは祈られていて、主が彼らの名を知っておられ御心に掛けておられるからだろう。
サマリヤにはイエスさまのメッセージを聴いた人々がいた。

 

汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
それでその町に大きな喜びが起こった。(7~8)

 

世には色々な悪霊の働きがあり、気づかずにそれらの虜になっているのである。キリストによる霊に触れられて、汚れた霊から解放された人は、熱心にみことばに耳を傾けるようになる。表情は明るく楽しそうになって、幼子のような素直さを見せられることがある。このような聖霊の働は珍しいことではない。

 

 この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。(9~10)

 

シモンの魔術こそ町の人を縛っていた悪霊である。福音を聞いて信じても、いつの間にか、目に見えるものに引き込まれて行くことがあるのは、みことばに導き続ける聖霊の臨在がないからである。

 

しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。(12~13)

 

ピリポにわざを行わせるのは聖霊によることである。しかし、バプテスマという行為によって聖霊を受けるのではない。人はうわべを見るが神は心を見られる。シモンが神を騙すことはできない。

 

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。(14~16)

 

 時を移さぬ使徒の働きは、うちなるキリストとの深い交わりにあり、聖霊の導きに打てば響くように従う行動となって現れる。

 

使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。(17~19)


 
シモンが信じていたものが金の力とよくわかる。その力で彼が手に入れようとしたものは神のたまものであった。たまものは神のご計画の中にあるもので、如何なる善行によっても、如何なる犠牲によっても買えない。

しかも、彼にはそのたまものの真価がわかってはいなかった。ただ、人の関心をかうための奇跡にしか興味がなかったからである。

 

キリストは昨日も今日も同じであり、この当時も今も変わることは無い。たまものも神のご計画によって今もたまわっている。
しかし、もし、今日この使徒と同じように癒しの奇跡が行なわれたら、その弟子が結果に耐えることは出来ないだろう・・。世界が一瞬につながって反応するこの時代にあっては・・。

 

 主は時に相応しく備えてくださっている。今は世界中にある聖書によって、聖霊の導きの中でみことばを解き明かし、キリスト信仰に導き入れてくださる。
癒しは一時的であり、何度癒されても人は必ず一度死ぬ者であるが、みことばは永遠の御救いに導いてくださるからである。

 

また、あらゆる奇跡は今も起こっているが、それはとてもさりげなく、感謝にあふれてキリストにひざまずく信仰を導く奇跡である。
キリストは信じる者のうちにいてくださる。このことはすべての必要を満たしてあまりあることである。

 

シモンが少しでも福音がわかっていたなら、まず自分の救いを願っただろうに・・。キリストのみことばに無関心なら、キリストとは何の関係もないのである。

 

あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。(21~22)


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