そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」(マタイ12:38)
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:5)
イエスさまは多くのわざを公然と行われた。彼らの目が見えるなら、改めて求める必要などなく日々しるし連発である。
目の見えない者が癒され、見える彼らには肝心の救い主のわざが見えないのは皮肉なことだ。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:24)
イエスさまのわざをねじ曲げるのは、彼らの目が心にあるとおりに見ているからで、聖なるものと汚れたものを見分けるのは聖霊に拠る。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:32)
あり得ない事を通して現される神のしるしは、真っ直ぐに受ける者には大きな救いをもたらし、ねじ曲げる者には裁きをもたらす。聖霊はすべてにおいてイエスさまを知る力をくださる。みことばを真っ直ぐに聴くことを導いてくださる。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:36~37)
彼らはイエスを十字架で殺した後によみがえりの主を知ることになる。さばきの日に彼らが求めたしるしが彼らを裁くことになるのだ。
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