石ころ

メダカと晩夏




 メダカの水槽に貝が異常繁殖していたので、陽が傾いた頃を見計らって水を取り替え貝を一掃した。
でもきっとまた復活するだろう。彼らは水草に卵を産み付けていると思うが、水草は残したいのだ。メダカの卵もあるはずだけれど・・老眼にはよくわからない。

水槽を持ち上げる前に、イエスさまに手を貸してくださいとお祈りをした。
私はイエスさまに拠ってのみ何でも出来る者なので、大小どんなことでも、イエスさまの臨在を求めずには行動できない。
もしイエスさま抜きのことがあれば、それは失敗しなければならないと思っている。それは主の栄光とはならないし、私にも災いでしかないだろうから・・。

 キリスト者が世の状況だけで前進するのを見た時、イエスさまが居られないことに気付いて「あの~」と言ったけれど、祈りのための時間が取られることはなく、結局長年かけて間違いが露わになり、主の栄光を損ねる結果と成ってしまった。
人の勢いの中では、主に示された間違いを伝えても無力なのだ。

うっかり勝手に走り出した失敗に気づいた時は、私は即座に主にひれ伏す。その時、手遅れになることは決してない。主は教えてくださるのだ。
けれども、気付かないままなら主の栄光を損ねることとなり、それはとても悲しい結果となる。

 澄んだ水にメダカはゆったりと気持ちよさそうである。
夏季休暇中の飯炊き婆さんから解放されたら、陽射しは障子にも畳にも深くなっていて、暮色の迫りくる中には、幾らかの涼しさと淋しさを感じた。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)

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