「違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように。」
パウロはテモテに、教会をそのことから見張るように教えている。
賢そうな議論が持ち込まれることは、今その教会に聖霊の充満がないことの現れである。それらは霊の空白の部分に侵入して、飢えた魂を空疎な議論に引き込み、豊かな恵みの福音を持ち去るのだ。
わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。(6~7)
わけのわからない議論を付け加えることが有り難くなり、ただ信仰によって救われる一方的な神の憐れみ、単純明快な福音が馬鹿馬鹿しく思えるのは、善悪の知識の木の実を食べた賢さによるものだろう。
律法は神の義によって「悪を悪として裁くもの」であり、
福音は神の愛によって「祝福に満ちた神の栄光を現す」ためのものである。
私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(12~15)
パウロの「私は罪人のかしら」という言葉は、福音に在る祝福の偉大さと、神の栄光をあらわしている。彼の罪「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」が、今や福音のための使徒とされ、命を捧げるまでに用いられているからである。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(16)
キリスト者は皆パウロに倣って生きる者である。その善にも悪にも神の福音を運ぶ見本とされる恵みの中で、晴れがましい光栄な救いの行列に並んでいるのである。
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。(17)