石ころ

レビ族の務め(民数記8章)

 

主はモーセに告げられた。
「アロンに告げよ。『あなたがともしび皿を載せるとき、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい』と。」
アロンはそのようにした。主がモーセに命じられたとおりに、燭台の前に向けてともしび皿を載せた。(1~3)

 

もっとも重要なことは「アロンはそのようにした」である。理由は知らなくても、主がご存じであるこを行うのが祭司の役割である。

 

燭台の作りは次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。(4)

 

すべては主がモーセに命じられた通りである。その一つひとつにどのような意味があるのか、アロンがすべてを知らなくても、従順に拠ってともしひは神の御わざを照らす。

 

レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。
あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主に献げる。
こうして、あなたはレビ人をイスラエルの子らのうちから分け、レビ人はわたしのものとなる。(12~14)

 

キリストは十字架で、すべての人の罪のためきよめのささげものとなられ、神への宥めのささげ物となられた。それは全人類、一人ひとりへの神の愛から出たことである。
この事実を信じる者はみな救われるのである。知るべきことは他にもあるが、この事実を信じる者には聖霊が、みことばからすべてを教えてくださる。

 

イスラエルの子らのうちでは、人でも家畜でも、すべての長子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。
わたしは、イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりにレビ人を取った。(17~18)

 

神はご自分の長子であるイエスを十字架にかけて、その命を人の罪の代価として、信じる者を買い取ってくださった。
それゆえ、救われた者は神のものである。その人生も、命も、すべては神のものである。
「私」の永遠のいのちのためにキリストの命が支払われたのである。なんと高価な代価が支払われたことであろう。それはなんと光栄なことであろう。

 

わたしは、イスラエルの子らのうちからレビ人をアロンとその子らに正式に付け、会見の天幕でイスラエルの子らの奉仕をし、イスラエルの子らのために宥めを行うようにした。それは、イスラエルの子らが聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないようにするためである。」(19)

 

救われた者は正式な神の子である。みことばは真実だからである。そう、一方的な神の愛による備えによって、イエス・キリストを信じた瞬間に生まれる神の子なのである。

 

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12~13)

 

レビ人は身の汚れを除き、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前に献げた。またアロンは彼らのために宥めを行い、彼らをきよめた。
この後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。(21~22)

 

あがないの十字架の血潮によってすべての罪を洗われたキリスト者は、神が罪を認めないとされているのは、キリストを見ておられるからである。救われた者はキリストのうちに在るからである。

 

神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。(Ⅰヨハネ5:8)

 

その人は失敗はするが、神を神として崇め従順することを第一に願う者となり、キリストはその願いをかなえてくださる。もし、その願いを持つことが無いなら、未だ生まれていないのである。

 

主はモーセにこう告げられた。
「これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。
しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。(23~25)

 

今キリスト者の人生にキリストが共に歩いていてくださる。道々みことばを解き明かしつつ教え、導いていてくださる。
もし、私たちが強いて主を求めるなら共に食事をして、はっきりと見えるよう霊の目を開いてくださる。
それゆえ、キリスト者には年齢制限は無い。老年になって弱った時こそ覆う神の力を経験するからである。

誰でも自分の賢さや知識で主を知ることはない。それゆえ、賢くても愚かでも、若くても老人でも、主を知ることに何の障害も差別もない。

 

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(ヨハネ21:18)

 

イエスはペテロの死に方をこう言われた。年をとると主は若い時よりも重い荷を負わされる。それは肉の力が無くなるからである。そのときはイエスのくびきを負っているのである。それが軽いのは、イエスがすべてを負ってくださったからである。

 

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)


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