石ころ

主との距離 (マルコ5章)




 ゲラサの人々が見たのは、服を着て正気になってイエス様の前に座っている男であった。彼は今まで狂っていて昼も夜も墓で叫び、鎖でもつなぎ止めることが出来ない状態だったのだ。
しかし、男から追い出された悪霊どもは、イエス様によって豚に入り崖から落ちて死んでしまった。多くの豚を失った人々がイエス様に願ったことは「この地方から出ていってもらいたい」であった。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコ8:36~37)


ゲラサの人々がイエス様を恐れたのは、財産を守るためでありそれが彼らの選択であった。
恐るべき事に、主は私たちのいかなる意志をも尊重される。

彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない(マルコ4:12)

みことばは事実である。目の前で奇跡を見ても主を認めない者は認めない。福音を聞いても理解することがない。人はどこまでも頑なで、目先のことだけでこれさえあれば大丈夫だと思い続けている。

彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。(詩編49:11)新改訳

たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。(詩編49:11)口語訳


 娘の命の危機に接して目覚めたヤイロの信仰は、時をかけて成長させられる必要があった。
「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(マルコ5:23)

群衆が行く手を阻み、12年間も血の病に苦しんで来た女が密かに、イエス様の衣のすそに触れて癒されることを求めた時、イエス様は彼女を癒し告白に導かれた。
それは彼女を世の差別や病、罪の重荷から解放するためであった。このことはヤイロには割り込みに思えても、主には彼女がメインであった。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)
主に信仰が認められることは人には完全なことであり、主のお喜びである。

ヤイロはこの途中の出来事を通しても信仰の成長が導かれた。しかし、彼は「娘が亡くなった」という最悪の知らせを受ける、信仰が試されるとき世は絶望的な情報をあふれるように持ってくる。
イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われた。
私たちもみことばを覚えて口に出し留まるなら、真実な主の御力を経験して成長の糧としてくださる。

彼は目の前で女の癒し見て、「あなたの信仰があなたを救った」というイエス様のおことばを聞いていたのだ。イエス様のお側でじっと待って居たからである。
イエス様は群衆をまとめてではなく、一人ひとりを時間をかけて育ててくださるお方である。このことは生き死によりも大切なこと。

イエス様のひとことで娘はすぐに起き上がった。主は言われる「食べ物を与えよ」イエス様にいのちを救われた者は、みことばを食べて生きるようになる。
人はすべて死にゆくだけの者である。唯一イエス様によってまことのいのち、滅びることのないいのちを受けるのである。みことばに養われて成長してゆくことは、老人も若者も同じく必要なことである。

主が奇跡の場に伴われたのはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけであった。変貌の山でも、ゲッセマネの祈りの時も彼らだけであった。
しかし今、私たちは常に主のもっとも近くに居ることが可能なのだ。ハレルヤ!

イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(Ⅰヨハネ4:15)

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