神の愛は敵をも愛する愛。それゆえ人類に滅びを免れて生きる道が開かれた。
アダムが罪を犯したとき人は神の敵となった。神の敵は罪であり、みことばに背く罪は何よりも重い。
罪と同居できない神はアダムを園から追い出された。
その時神は、人を愛する愛によって生きものを屠りその毛皮を着せて、死が入り込んだアダムたちの命を庇われた。
そのことは御子イエスの命によって、人類を救い出す神のご計画の予表であり、十字架で流されたキリストの血によって、永遠の滅びから救出することは、この時点から神にあったことがわかるのである。
神の居られない所では、人が裸のままで生きることは出来ない。いつも自分の身を自分で守る必要があり、心のうちを装って遣り繰りをしながら生きなければならないからである。
アダムとエバは罪が入った時、神の御前で責任を転嫁して他を責め自分を守ることを覚えたのである。
神の愛は、人が死んで後も永遠に続く、罪の責め苦ゲヘナから救い出すために、すべての罪をイエス・キリストに負わせて無罪とし、キリストに来る者を神の子として生かして、永遠の御国に住まいを備えてくださったのである。
しかし人は、思うようにならないすべてのことを通して「なぜ神は」と訴え、責め続けて愛を悟ろうとはしない。
また、お互いの間においても「愛がない」と訴えて責めることで自分を弁護し、そのことが罪から発生していることに気付こうともしない。
あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。(22)
その愛は真理なるキリストへの従順によって、魂を清めることから可能になることであり、すべての罪を清められた心から生まれるキリストの愛、偽りのない神の家族にある愛である。
どれほどの美しい言葉も堅い約束も、世の言葉は移り変わって人の命と共に朽ちるものである。それを知っているので、人は真実な言葉を求めて疑心暗鬼を彷徨い続けるのである。
しかし永遠に変わら真実は、「愛」によって人を造られた神にのみある。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。(23)
生ける神のことばによって新しく生まれた者は、永遠を約束するみことばの中で完成されて行く。きよい心で互いに熱く愛し合う愛を、自分で行うことは無理難題である。そもそもそれは一方的ではなく「互いに」だからである。
この愛が存在するところは神の家族の中であり、ことばなる方への従順から始まり、日々愛し合うための助けを受け続け、その熱心と力をうちに居られるキリストから頂いて、祈り合う関係によって完成される愛である。