石ころ

「アーメン」と言いなさい(申命記27章)

 

 モーセとレビ人の祭司たちはイスラエル全体に告げた。「イスラエルよ、静まって聞きなさい。今日あなたは、あなたの神、主の民となった。
あなたの神、主の御声に聞き従い、私が今日あなたに命じる主の命令と掟を行いなさい。」(9~10)

 

「今日あなたは、あなたの神、主の民となった」とある。昨日までは主の民ではなかったのか。主はあれほどに面倒見てくださったのに・・。
主がどれほど良くして下さっても、聴き従うことが無い者とどのよな関係を築くことが出来るであろう。応答しない一方通行の愛は片思いであって信頼関係は生まれない。

主の民であることは、主に聴き従う時に生まれる関係なのである。今日主の民となったのは、今日聴き従うことが始まるからである。

 

 その日モーセは民に命じた。
あなたがたがヨルダン川を渡ったとき、次の者たちは、民を祝福するためにゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。
また次の者たちは、のろいのためにエバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。(11~13)

 

祝福を見張る者たちとのろいを見張る者たちが定めら、それぞれは主に命じられた所に立つ従順の始め。祝福される者がありのろわれる者がある。それは人の基準で定められることではなく神の愛と義によることである。

 

 レビ人は、イスラエルのすべての人に大声で宣言しなければならない。(14)

 

誰にも聞こえるように大声で宣言されるのは、神の民が神に約束する言葉である。聞いた民は「アーメン」と答えて神に誓う。

偶像を造るな「アーメン」偶像を持ち込むな「アーメン」
自分の父や母を軽んじる者はのろわれる「アーメン」
隣人の地を盗むと呪われる「アーメン」
目の見えない人に嘘を教えると呪われる「アーメン」
この言葉が教える聖書の意味は深い。

 

イエスはまた、彼らに一つのたとえを話された。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。(ルカ6:39)

 

教える者が、見えていないことに気づいていないことが罪なのである。霊である神のことばは霊によって悟ることばであり、聖霊の助けに拠って伝えることである。
聖霊の助けを求めず、人の言い伝えを語るなら共に滅びの穴に落ちるのであり、見えているという者は生まれつきの盲目に気づくことはなく、それゆえ聖霊の導きに耳を貸すこともない。

 

 弱者のさばきを曲げるものは呪われる「アーメン」

さばきを曲げるのは強者におもねる行為である。しかし、その人は自分の弱さに気づくことは無く、弱さに気づかない人が神を求めることはない。人を恐れる者は神を恐れることはなく、造り主には無関心であり呪われる。

「父の妻と寝る者は、のろわれる。」アーメン
「どのような動物であれ、それと寝る者はのろわれる。」アーメン
「父の娘であれ母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」アーメン
「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」アーメン


ルベンはこの罪を犯したことで長子であってもその祝福を受けることは出来なかったが、呪いを受けなかったのはまだ律法を受けて居なかったからであろう。律法が罪を定めて罰するのである。

 

 異邦人は律法を受けていないので、律法に拠って呪われることはないが、神はすべての人に良心を備えられた。それが罪を問う働きをしている。誰が見ているからではなく自分の良心が罪を告発するのである。

しかし今、良心はそれだけではなくサタンの働きによって自他を告発し続けることがある。汚された良心がキリストの救いを拒絶するのである。

 

「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
「賄賂を受け取り、人を打ち殺して、咎のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(24~25)

 

律法は明確に「殺してはならない」と命じている。命はすべて神のものである。戦争は肉の働きであり、神が直接命じられない限り正義の戦争はない。敵の一人ひとりについて「神が彼を殺せと命じられたのか。」と問われて答えることが出来る者はいない。

 

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。(ローマ12:19)

神は愛している者に命じられたのである。恐れるべきは神から復讐を受けることである。神の命令に背いて神の敵となってはならない。

 

 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」アーメン

「アーメン」と口にすることは誰でも出来る。しかし、律法を完全に守ることは人の熱心で出来ることではない。人はみな肉を着ており、霊は未だそれを支配していないからである。 

 

それゆえ、キリストによって完成された神のことばによって、信じる者を守るために一人ひとりのうちに助け主なる聖霊が来てくださったのである。

キリスト者はみことばを聴いたときに、聖霊に導かれつつキリストに信頼して「アーメン」と言うのだ。
それは自分を信じて言う言葉ではなく、守っていてくださる良き方にいのちをお委ねしてのことである。主に信頼する者がのろわれることはない。主はご真実だからである。


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