精霊の宿り

BlogTop↑↑ 夜が来て、花は二つの花びらを閉じ、すべてを隠してしまうのだ。

作者不詳

2009年11月07日 20時16分31秒 | ノート note
大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良いことをするようにと
病気を賜った

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならぬようにと 失敗を授かった

求めたものは
一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべて叶えられた


私は最も豊かに祝福されたのだ


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7.21ノート

2009年07月21日 06時28分25秒 | ノート note
7/21日6:30
 今朝はひさびさの新聞休刊日。新聞配達はお休み。6時前に起床した、7時間ぐらい眠ったようだ。齢を取ると睡眠障害に悩む人が多いらしい。おれは精神薬で睡眠中枢をやられたから眠る力が衰えて苦労している。眠る力というのは大切な事らしい。
 窓の外は土砂降りの雨だ。今週一週間まだ梅雨は明けないらしい。土用は一番暑さの厳しい時期なのに今年は梅雨明け前の土砂降り。夏の光線が待ち遠しい。
 世の中の流れは急速だ。失業率から見れば1930年代の大恐慌に匹敵するような経済不況らしい。高度経済成長の時代に育った者にすれば、まさか老年初期のこの齢に大恐慌に巡り会うとは想像だにしなかった。人々が思い描いていた「幸福」や「安定した暮らし」というものが目の前で崩れてしまった。老いも若きもあすが不安なのだ。
 パーソナルコンピューターが発達してインターネットなどが生活の中に入ってくることも想像を超えていた。科学技術、経済、政治、日々の展開が急速だ。
 村はまるで50年前の姿が覆いかぶさるように、何もかもが発達したような時代のなかにあって、人の交流の希薄な寂びれた村になってしまった。若い人が都会から村に帰ってくるのは大きな障害を人生に抱えるようなものだ。生活して行ける条件が衰退してしまったところに人はもどってこないだろう。もどってきたとしたら自ら不利な条件を選ばざるを得なかった「不幸」に因るためでしかないだろう。
 人間は動物であり生き物だからなるべく適切な条件で棲息する場所を本能的に選ぶだろう。生きる、棲息する、ということは生き物にとってどこでどんなふうに生きるための闘いをするかということだから、どこでどんなふうに苦労を重ねるかということに違いない。
 数億年前この村は浅瀬の海のなかで、ビカリアという巻貝が繁殖していたり、マングローブに覆われていたり、小さなサイに似た動物が太古のまぎれない自然のなかで幸福に繁栄していたらしい。知り合いの古生物学者が教えてくれた。地球上に人類のいない世界がかつて在ったのだ。繁栄していたビカリアという巻貝に意識は存在しないから太古世界は苦もなく楽もないあるがままの自然だったろう。人類の獲得した意識はそもそも受苦的だったのだ。
 おだやかな平坦な時代に産まれる生物も急速な大変動の時代に産まれた生物も、意識を所有しない生き物も意識を獲得してしまった生き物も、それぞれ個別に設定された時間の流れの中に自らを埋め込まざるを得ない。

 太古の巻貝ビカリアは産まれてしまった哀しみにキューと泣いただろうか。

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after April fool

2009年04月02日 19時47分28秒 | ノート note
 アマゾン川を渡って行ったら、河洲に家を建てて住んでいる。小さな小屋だが雨風はしのげる。私は頭を振って挨拶した。しばらく泊めてもらうことにした。ボートから荷物を運んだ。ぬかるんだ足下に蛇がいた。
小屋の中に段ボール箱があったのでそこに一冊の革本を置いた。Deuschの森の中で見つけた18世紀の稀覯本だ。
湿気がひどいので本は濡れた。シャツは泥と汗で濡れた。
蜂鳥の飛ぶ音がしたが、猿は泳げないのでここには現れないだろう。
ラジオを取り出してスイッチを入れると、どこかの国の国営放送がfinancial Panic を報じていた。人はmoneyを追いすぎたのだろう。the end of the world という曲はfascistの好む曲だ。

 壁に寄りかかってMiss.Asiaの生涯を思う。家賃はいくらぐらいだろう。

 蟻がアナコンダの舌を咬んだ。


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私の好きな言葉

2008年10月12日 07時04分34秒 | ノート note
 若い頃からあれほど好きだった活字追うことがこのごろまったくできなくなった。こつこつと買いためた書籍は何百冊となく書棚に並んでいる。なけなしの小遣いをはたいて買いためた。学生の頃は金があるとすぐに本を買ってしまうので食費さえもなくなって食いはぐれた。それがこのごろまったく読めないのだ。老眼のせいでもあるがそれだけではない。活字を追おうという気がなくなってしまった。若い頃はK.Marxの「資本論」などほとんどノートに丸写しするくらいに活字を追い求めて来たのに.....。

 それで結局残ったのは次の一文だけだ。

「なんじらはウジ虫より人間への路を経てきた。しかも、なんじらの中の多くはなおウジ虫である。また、かってなんじらは猿であった。しかも、人間はなお依然として、いかなる猿よりも猿である」(ニーチェ、ツアラトストラはかく語りき)

 あの魯迅も若い頃この一文に出会っている。さらに次の一句

「ぼくのポエジイは、人間というこのけだものを、そしてこんな毒虫を創りだすべきではなかった造物主を、あらゆる手段で攻撃するためにのみ存在する。ぼくの命のつづくかぎり、巻は巻を重ねるだろうが、そこにはつねに、ぼくの意識に踏みとどまっている、この唯一の思想しか見られないだろう!」(ロートレアモン伯爵、マルドロールの歌)



 いやはや異常に敏感な病的神経とともにこの世に生まれきたって五十年。こんなことを確認するために生きて来たのか。かつてソ連の詩人マヤコフスキーも「わたしの革命」と喜び迎えたその「革命」に裏切られ、党に裏切られ、民衆に裏切られ、恋人に裏切られ、生活していく手段も無く、エセーニンの自殺を厳しく批判していたにもかかわらず自分の頭を拳銃で撃ち抜いた。マヤコフスキーは若い頃から「人間」などというものがろくなものでないのは知っていたのに.......。



 だが私はこんな「詩」も嫌いではない自分を発見する。


 紙風船  黒田三郎

 落ちて来たら
 今度は
 もっと
 もっともっと高く
 何度でも
 打ち上げよう
 美しい
 願い事のように



 重力の法則は普遍だから「打ち上げた紙風船」は落ちてくるのだ。「悪貨は良貨を駆逐する」のが法則的なのだ。長い人類史において人類は少しも精神の戦いにおいて進歩しなかったようだ。

 紙風船を打ち上げるには重力に逆らってエネルギーを加えなければならない。放っておいたら「堕ちる」のが人間なのだ。

 猿と話しても無駄なので人に会いたくないから、このごろ家から外に出たくはなくなった。それでもどこか遠い星でこんな私を待っている人がいるかもしれない。







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精神科医をだます方法

2008年09月27日 17時58分05秒 | ノート note
つねに本当のことを語ってやるべきだ

相手は知能優秀で専門的知識も経験も上だ
何人も患者を合法的に死に追いやったやつだ
悪魔の知能だ

精神科医が雑談を始めたらそれにも乗ってやるべきだ

一対一の診療室では向こうは全能の相手だ
抵抗すればするほど向こうの思うつぼだ

優しい妻とかわいい子供のいる家でくつろぐのを喜びとしているやつだ
患者を一生もてあそんで金を稼いでる
世の中のからくりを知っている悪魔だ

時にやつらだって自分から狂うのだ
抵抗すれば平気で患者に嫌がらせをする

だからつねに本当のことを語ってやればいい
やつらは自分で自分の寿命を知っている
別にこちらが手を貸してやつらを困らせる必要は無い

やつらは自分の判断ですべてを決することができる立場だ
「医事法」の縛りなど見せかけだ

患者はうそをつくものだと思っているのなら
本当のことだけ語ってやればいい

殺そうと思ったらいつでも患者を殺すことができる
そんなやつらには
ほんとうのことだけ教えてやればいい

嘘を語るのが人間の本質だと知っている
「政治」のからくりを知っている
そんなやつらには本当のことだけ語ってやればいい

もしかしたら真実の力に圧倒されて
やつらが患者の椅子に座っていることになるかもしれない

そうなったら
やつらは馬鹿だから自分も「精神薬」に頼るのだろう

歴史の法廷の前でやつらは滅び行く
嘘に慣れた奴らにはほんとうのことを語ってやればいい




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夏に

2008年06月13日 17時26分14秒 | ノート note
 泥のように眠った。目覚めの後で、朦朧とした意識の中さまざまな出来事の想念が自動記述のように湧き起こる。
 ああ、夏がやってきたんだ。人間は時をも数値化したので、生きている意識が季節の巡る回数を数えて、わたしは今年五十歳の夏を迎える。夏に産まれたわたしは夏が好きだ。

 デジタルな情報のやり取りの中で文字は、言葉は、記号の閾値を超えた。

 そこに人の心を、魂を埋め込む。それは可能なことだろうか。愛すべき「りさ」はデジタルシステムから追放された。システムから零れ落ちる砂は、砂時計のように堆積する。その幾何学模様。

 冬に狂気をはぐくむ者は放逐される。夏に踊る者は称賛される。わたしの生は歓待される。

 妻は老いを知らない。「わたし思い残すことはないから」とつぶやく妻の眼。その深い海底の静けさの中に消えていく灯り。眼数も計測されて、その方程式の解はデジタルに歪んでいる。雨が降るなら数えることができるくらいの大粒の雨がいい。

 地上の水気がすべて蒸散しきったような砂漠の夏に。夜輝く星々は、小さな少年の目に影を落とした。大きくなったら測量士になりたい。ピラミッドは正確に宇宙の計測によって極点を知らせた。

 昔見たテレビのアニメ番組さ。砂漠と宇宙船は同時にelectric guitarの上を滑ったんだ。ああ、生まれたばかりの目に宇宙線は有害だ。

 モウいい加減にしよう。五十歳になるんだ。あすはとびっきりの写真を撮りに行くんだ......。






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尾形亀之助”雨ニヌレタ黄色”(「歴程詩集」1944年〔昭和19年〕)

2007年09月20日 16時02分34秒 | ノート note
 昭和19年10月15日刊「歴程詩集」青磁社P103

  雨ニヌレタ黄色    尾形亀之助

 
 花デハナイ。モミクチャノ紙デハナイカ、
 景色ハ、ソノアスファルトノ路ノ上ノ黄色イモノニ染マルコトモナク、イッサイガナントナク澄ンデヰル。
 自分ハ、ソレヲナガク見テヰタノカ、變ニ疲レタ気持サヘシテ、ナンダカ服ノ中ノ體ガ寒ムクナッタ。

 ト、突然私ノ眼ニアフレテ一群ノ兵隊ガ通ルト、モウ黄色イモノハナク、燈ノ消エタヤウニソコラガ白々シイ薄暮ノ雨ノ路トナッタ。


******

 モノクロの古いトーキー映画の一瞬の情景を観るような"詩"だが、晩年の尾形亀之助の底深い”虚無”が投影されているのだろう。軍靴の足音の雪崩打つ「時代」に、詩人達は抗し得なかった。42歳で逝った尾形の「歴程」に載った最後の詩だった。

 尾形は村山知義らと「三科」に集う未来派の前衛画家だったらしい。未来派にともなう奇矯な行動でも知られた。東北の屈指の資産家の生まれだったが、東京で詩壇にデビューしたのち、筆を断って仙台に帰郷し、平凡なサラリーマンとして若くして亡くなる。(1942年死去)

 日本のアバンギャルドはみんな天皇制ファシズムに飲み込まれて行った。この詩が反戦詩ではなかったとしてもせめて厭戦詩ではあって欲しかった。「歴程」同号の紙上は、「戦争協力詩」で埋められている。

 未来派の発祥地、イタリアでは前衛の未来派は、ファシズムの尖兵となって行った。

 侵略戦争に抗し得ない「前衛藝術」とはなにか。子どものわるふざけのようなものに過ぎなかったのか。真の主体の存在しないところでは、それは「芸術的立身出世」の符牒ぐらいでしかなかったのだ。永遠の人間的真実を求める藝術は、社会の現実や「世間」と折り合えるはずも無く、衝突し、社会(世間)の支配にくみするファシスト”大衆”と”俗物”に対して真に闘う主体でなければならなかったはずだが。日本の”主体”はどれも未生の幻だったのか。

 ロシア未来派のマヤコフスキーについては、また別に語ろう。

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ある身寄りの無い男

2007年09月14日 20時23分33秒 | ノート note
 その男の目は、そう、幼いころ小川で捕まえた小魚(アカンベイと村人は呼んだ)あの小さな円い目のようだった。身体は小太りで白く、腕と胸は毛深かった。白い豚のようなその男は、ふくらんだ頬の間の小さな口をとがらせて、あの魚眼のような目をきょろきょろさせながら虚ろに話した。

 この男にわたしはなんの関心も興味もましてや「友情」など感じもしなかったが、ただ生来の人生を投げ出したような暇つぶしとでも言った関係でこの男に関わっていた。この男には、身寄りが無かった。

 兄弟などいない独り者で、母親は男が中学生の時首をくくって死んだ。父親は例にもれず女をつくって暮らしていたが、病死した。父親の生命保険でも入ったのか、男は一時金回りが良かったが、そのカネも、やたらとそれをめあてにたかる悪友達と毎晩飲み歩いて、すぐに底をついた。

 家は一軒家のみすぼらしい昭和三十年代に建てられたような破れた家に住んでいた。というより寝ていた。独り者だから掃除などしないし、ゴミだらけで、本をやたらと買い込んで床に積んでいた。たばこの吸殻を部屋中に投げ捨てて、足の踏み場も無いほどだった。大きなテレビを買って、ビデオなどという機器もそなえていたが、それもゴミだらけの部屋に埋まっていた。

 男は中学を卒業すると、関西の都市の定時制に通ったらしい。私立大学の夜間部にも籍を置いていたが、卒業などするはずもなかった。すこしは若いころ「労働」をした経験があったのだろう。国道に一日中立って旗を振って車の誘導をしたこともあると語ってはいたが。

 都会の生活をあきらめて田舎の自分の生家に一人住むようになったのだが、どこかで政治運動にかかわって、うまくこの地である政党の「専従職」の見習いのような地位を得た。地方の政党の活動家など、そんな男の掃き溜めのような、だれも相手にしないが風来坊のような連中がそのころはそんなところに「職」をもとめていたのだ。

 わたしは大学を卒業して、この地で結婚し子どもをもうけ、その政党活動に没頭して、精神に異常を来たし、それでもなんとか妻と子どもと「幸福」な団欒を得て暮らしていた。そのころ身寄りの無いこの男と知り合ったのだ。

 わたしはこの男になんの関心もないのだが、男の方は村の変わり者のわたしになにか寄る辺を感じたのか、それとも「友情」でも押し売りしたいのか、わたしの家にやってきて、酒を飲んであばれたり、こどもにジュースを買ってきてやったり、夜中にやってきて、ふろに入らせろと言って来た。

 わたしの子ども達は幼かったのでなんの抵抗も無く男を受け入れていたし、妻はわたしの「交遊」など何の関心もなかった。

 男はその政党の専従職の見習いをしていたが、ある日その地域の政党の長に生活態度をやり玉に挙げられて、追い出されて職を失った。どうせ嫌われ者だから「政党」などに受け入れられるはずも無かった。

 職を失ってどうするのかと思ったが、男は一日中破れた家に閉じこもって、たばこの吸殻を投げ散らかして、たばこ銭が無くなれば、床からしけモクを拾って吸った。一日中寝ていたのだ。

 もちろんわたしは「心配」して、なけなしのこづかいからカネをはたいて男の持ち物を買ってやったり、インスタントラーメンを箱ごと買って行ったりした。政党の町会議員にも電話して、男の生活をみてほしいと相談してやったりもした。

 一ヶ月も二ヶ月もそんなふうに一日中寝転んでいたが、ある日散髪をしてきて「仕事に行く」と言った。男はそういうときには散髪をして身なりを整えたいと思ったのらしい。ところが一日働いて、翌朝にはもうすでに出勤する意欲を失って、もとの木阿弥。一日分の給料を握って、また家に閉じこもった。そんなことを何度かくり返して、まわりの者達も「あいつはダメだ」とみんなさじを投げた。

 男はいま精神病院にいる。もう五十代の後半だろう。「死ぬときは餓死するつもりだ」とわたしに語っていたものだが、そんな勇気も無いのだろう。結局、政党の町会議員の手で生活保護の申請をして「ウツ病」ということで入院し、そのまま居場所を占めたのだ。もう何年もその男に会っていない。

******

 ある夜、その男が「おまえは女を孕ませたからな。おまえの負けだ」とつぶやいた。「負けだ」と言われても、その男に女を孕ませるような勇気も相手も無いにきまっている。なんだ負け惜しみか。とその男の心中を思ったが、左翼革命家が「結婚(生殖)」しないのが一種のトレンドだという風潮を男はどこかで聞きかじっていたのだろう。

 わたしは、ふとロシアのチェルヌイシェフスキーの小説「何をなすべきか」を以前に読んだことを思った。若いレーニンも読みふけったその小説には、二人の親友同士の革命家が登場し、一方のアメリカに渡った革命家の恋人(主人公)と、一方の親友が身を隠すために偽装してロシアの片田舎で同じ屋根の下で暮らす。だが二人は夜になると別々の部屋に寝るのだ。

 革命家が「女を孕ませてはならない」という戒律は、19世紀ロシアの厳しい革命家の生活の中でナロードニキたちのあいだに発祥した伝説なのか。とわたしは思った。

 そのころわたしは「山口泉」という作家の著書に入れ込んでいて、山口泉は「生殖」を絶対的に拒否する思想を展開していた。そんなことを男に話してもみたが、男はそんなことにはまったく気のない風だった。誰も相手にしてくれない天涯孤独の「白豚」の自分を認めたがらないこの男は、わたしよりも「上」だと、自己のプライドばかりは誰よりも主張する俗物だった。俗物にとって「自尊心」「優越感」「自分が一番」という信仰は自己をささえるただ唯一の心なぐさむ砦だった。

******

 それにしても、わたしは「幸福」すぎたようだ。幼いやっと物心ついたころにはすでに、自分とまわりの幼少の遊び友達とはなにか「違っている」異常な意識をもった人間だと気づいてはいた。

 二歳の時、近くの禅寺で開所された「託児所」にお隣の「美保ちゃん」と手をつないで通ったが、わたしは自分の家以外の環境では緊張してトイレに行く勇気もなかった。尿意をこらえられず、そのままズボンを濡らした。それがまた特に自分では恥ずかしいことのようで、半日寺の境内のかたすみで元気に遊ぶ友達を見つめて、じっとしているほか無かった。

 似たような「恥ずかしい」体験は、三歳の時から通った保育園でも、小学校に上がった時からでも何度も体験した。ただ、わたしの異常な意識はまわりには気づかれなかった。母親も気づかなかったが、一度保育園の教師に「だいじょうぶだろうか」と気にかけてもらうように相談したことがあったが、保育園のベテラン教師も「だいじょうぶ」だと判断した。

 パニック障害という名の病名があるのを知ったのは、大人になってつい最近のことだが、隣町に母親に連れられて買い物に出たときも、町にあった小さな映画館で大きなスクリーンと大音量のステレオ音響のなかにいたときも、小学校で時おり全校生を集めて行われる教導映画のときも、あの居ても立ってもいられない神経の暴走がやってきて、誰にも言わずに苦しみに耐えた。運動会の喧騒のなかでも、遠くに出かける遠足のときも。

 しかし自分が普通ではない神経の持ち主であることをわたしは認めたくは無くて、ふつうに一人前の人間に成長したいと自分に願った。

 というのもわたしは農家の長男で、名家とされる環境で育った。わたしの曾祖母はまだそのころ生きていたが、曾祖母の長男が二十四歳で戦争に行って、沖縄で戦死して、この家はながらく没落の過程にあったのだ。わたしは長男に生まれた者として暗黙の強い期待のなかで育った。だから、自分でも家の命運を背負って、立派に人生を歩まなければならないものだと、自分を偽った。

 もし現代のような時代の大都会に生まれていたらどうだろう。わたしは精神的異常体質者として、子どものころから、いじめられ、精神的に虐待されることになるはずだ。おそらくそういう現実に苦しんでいる人たちは、社会の影で今このときにも痛切な悲鳴をあげているはずだ。

 わたしはあまりにも「幸福」に生きてきた。

******

 わたしに近づいてきた連中は、この「身寄りの無い男」だけではなかった。他にも似たような連中が関わってきた。ある人は、彼らのことを「人間のクズ」だとまで言ったのだが。

 彼らには彼らで、わたしに近づいてくる理由があった。

 もちろんわたしは、彼らに「生活」を立て直す術を説き伏せてみようとはした。しかしそんなことは無駄だった。馬の耳に念仏。口でいくら説いたところで、彼らはそんなことより、自分の人生観があり、生活観があり、そしてわたしとは違って幼少のころにすでに決定的に「絶望」しているのだ。

 もちろん、彼らはわたしに「甘え」たのであり、わたしを「利用」したのであり、「傷つけ」たのではあるが。そんなことより、

 彼らはわたしに助力を求めたのではなく、反対に彼らはわたしを教え諭そうというつもりだったのだ。それは彼らが知っていること、「世間」というものであり「世の中」とはこういうものだ、ということだ。

 彼らから観たら、わたしはあまりにバカに見えたのだ。

 わたしは本来、彼らとは別の道において「絶望」しており、「世間」だとか「世の中」だとかはまったく眼中に無いかのようだった。「成功」だの「金銭欲」だの「名誉」だの何がしかの「地位」だの、世間が当然視してまるでそれしか人間という「サル」には他に求めるものは無いかのごとく思っているそんなくだらないもののために、わたしはたった一回の生を生きようとは決して思わなかった。

 能力もチャンスも条件もありながら、世俗的利益から遠く隔たろうとするわたしを彼らは諭そうとしたのだった。

******

 三十年ほど前の春のことになるが、十八歳のわたしは大学受験を数週間後にひかえていた。「大学」などというものに行くべきかどうかは、判断に迷った。高校を卒業して就職すべきだとは思っていた。実際わたしは町役場の職員の採用試験を受けに行った。成績は良かったので、うまくいけば職にありつけたかもしれなかった。しかし、わたしは暗い「絶望」のなかにいたから、主体的な判断などいっさい拒否して、成り行きにまかせていたのだ。

 大学受験をひかえていたわたしは、トロツキーの「わが生涯」という上下二巻の大部の本を高校の図書館で見つけて、読みふけっていたのだ。もちろん、両親は受験を控えてなにをしているのかと心配になり、高校の担任教師に電話する始末だった。

 ロマンチックな革命家の生涯を達者な筆致で描くトロツキーの歩みに、わたしは自分の人生を重ねてみた。もちろんわたしの人生がそんな華々しいものになるはずもなかったが。

 あれから三十年経って、ふとしたきっかけでトロツキーの「わが生涯」を手にした。なつかしくページをめくっていくうちに、ある個所で目を留めた。

 そこには、ボルシェヴィキがあるイギリスの資産家に多額の資金を借りていたというくだりがあった。その資金はロシア革命の成就後、イギリスの資産家に返却されたとあった。

 そうか、人類史に新たな段階を拓くと熱狂的に迎えられたロシア革命時のボルシェヴィキの権力奪取も「カネで買われたのか」。

 それはわたしにとって軽い衝撃だった。

 「革命」でさえカネで買われるのだ。

******

 だがそんなことは「身寄りの無い男」がわたしに教えようとした世間の「常識」から言っても、理論的に言っても、当たり前のことではあった。K・マルクスでさえ分析しているではないか。「フランス革命」は、勃興する新興勢力であった市民階級、つまりはブルジョアジーの財力が背景にあった。援助資金がなくては、「革命家」にとって活動することはおろか、生きてもいられないのだ。

 だとしたら、労働者階級の権力奪取、「社会主義革命」はありえない自己矛盾だったはずだ。ブルジョア市民社会において最も虐げられた階級として、マルクスはプロレタリアート、賃金労働者を最も革命的な階級として「発見」した。

 だが生産手段を持たない階級とは、つまりは命を養うためのぎりぎりの生活費以外カネを持たない階級のことだ。そんな勢力がどうして「権力」に至りつくことができるというのだ。「社会的連帯」か「階級の団結と量」の問題か。

******

 もしわたしがカネと権力の所有者ならば、その意志さえあれば、天涯孤独のみすぼらしい「身寄りの無い男」を助力できるだろう。

 虐げられた者たちのために「革命」を起こしたければ、そして現在苦しんでいる者たちを助けたければ、直接に「カネ」と「権力」を。「自由」を得たければわたし自身が、富と権力にありつけばいいではないか。そのために生きて努力すればいいではないか。

 だが、それは人生と人類史の永遠の「自己矛盾」だ。

******

 身寄りの無いあの男の存在が、わたしにどんなに切実に問いかけてきても、わたしはそんなことのために生きようとは思わなかった。わたしは生まれてこのかた、世界のその根本の成り立ちを肯うことはできなかった。ただ、消極的に抗いつづけた。

******

 長い抗いのはて、わたしはすでに自力では生きていけない身となった。






                (面倒くさくなったのでとりあえず  完)



 

 
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