新古今和歌集の部屋

山槐記 元暦大地震 余震

元暦大地震

山槐記
元暦二年
○七月 小 
十日辛卯 今日猶地震數十度。如常時。大或小動無其隙。毎度有音、終夜同動。
十一日壬辰 今日猶地震數十度。毎度有聲、終夜同。
十二日癸巳 地震廿餘度、地震事。
十三日甲午 地震數度。但雖減於昨日、動揺之勢増。成知(戌剋カ)大動。
十四日乙未 地震如昨日、戌剋大動。
十五日丙申 地震員數減昨日。於揺動之勢増。亥剋大動。増一昨日昨日兩夜。但不九日同。京中諸人今日殊可大動之由兼日謳歌。
十六日丁酉 地震五六度。
十七日戊戌 地震四五度。密々見法勝寺破壊。可悲々々。今日閑院(當時皇居)御殿棟折、釡殿屋顛倒。
十八日己亥 地震四五度。
十九日庚子 地震五六度。勢過昨日。
廿日辛丑 地震四五度。
廿一日壬寅 地震四五ケ度。
廿二日癸卯 地震七八度。今朝有大動。但可(不カ)及初度。今夜自閑院行幸左大臣亭(大炊御門北富小路西)閑院依地震破損殊甚。此亭築垣等雖破損、急被加修理云々。
廿三日甲辰 地震五六ケ度。
廿四日乙巳 地震兩三度。
廿五日丙午 小動兩三度。
廿六日丁未 小動兩三度。
廿七日戊申 小動三ケ度。
廿八日己酉 地震兩三度。
廿九日庚戌 地震四五箇度。

文治元年 是月十四日改元暦爲文治
○八月 大建乙酉
一日辛亥 地震兩三度。
二日壬子 朝夕兩(イ三)度。
三日癸丑 小動一度。
四日甲寅 地震三ヶ度。
五日乙卯 地震一度。
六日丙辰 入夜小地震一度。
七日丁巳 地震二度。入夜其勢猛。
八日戊午 地震三ヶ度。入夜其勢猛。
九日己未 地震二度。
十日庚申 地震一度。
十一日辛酉 地震一度。
十二日壬戌 地震三ヶ度、其勢猛。
十三日癸亥 地動一度。
十四日甲子 今日有改元事。去月九日大地震。以後于今不止。仍有此事。…今日改元定間地動一度以上
十五日乙丑 地震一度。
十六日丙寅 地動一座。
十七日丁卯 地動三度。
十八日戊辰
十九日己巳 今日不地震。但有聲他方震事歟。自今夜仁和寺御室於院被行孔雀經法地震御祈云々。
廿日庚午
廿一日辛未 今日地震一度。
廿二日壬申 午後地震。
廿三日癸酉 説法之間有地震。予依仁和寺御室(依孔雀經法、自去十九日令候院給也)仰、參後戸方、以仁尊被
廿四日甲戌 地震二度。
廿五日乙亥 地震三度。
廿六日丙子 自去月九日地震于今不止。仍自今月十九日、於院御所(六条院北西洞院西)仁和寺法親王令修孔雀經法給。以寝殿南面爲道場。今日有結願事。
地震事至于今日四十七日間一日不止。今日結願時間振動非大非小。
廿七日丁丑 地震一度。
廿八日戊寅 今日有東大寺大佛開眼事。地震一度。
廿九日己卯 地震二度。
卅日庚辰 今日地震不覺。而或曰、朝間一度動者。

○九月 小
一日辛巳 夜半地震。
二日壬午 子剋地震。中動也。
三日癸未 未剋地震。中動也。
四日庚申 今日不地震。
五日乙酉 早旦地震。秉燭止、早朝地震。
六日丙戌 地震。
七日
八日戊子 地震。
九日己丑
十日庚寅 地震三度。
十一日辛卯
十二日壬辰
十三日癸巳 
十四日甲午 及晩地震。
十五日乙未 
十六日丙申 
十七日丁酉 亥剋地震。
十八日戊戌 亥剋地震
十九日己亥 亥剋地震。
廿日庚子 同二度地震。
廿一日辛丑
廿二日壬寅
廿三日癸卯 未剋地震二度。
廿四日甲辰
廿五日乙巳
廿六日丙午 申剋地震。中動。
廿七日丁未
廿八日戊申 亥剋地震。
廿九日乙酉 午剋地震。

山槐記(さんかいき)は、平安末期から鎌倉初期の公卿で内大臣を勤めた中山家の祖、中山忠親の仁平元年(1151年)から建久五年(1194年)までの40年間あまり日記で、書名の「山槐」とは中山と、大臣家唐名(槐門)を合わせたものに由来する。

史料
増補史料大成 第二十八巻 山塊記三 増補史料大成刊行会 臨川書店

写真 京都市営動物園内法勝寺九重搭跡付近

コメント一覧

jikan314
Re:太平記
とても興味深い事を教えて貰いました。有難う御座います。
「登るべき梯もなく」と言うことは、人が登れる構造では無かった。やはり、総重量削減の為に梯子すら取り付けられていないと言うことかと。況してや重い瓦等は無理と言うことですね。
震度6クラスの地震には、耐震構造があって崩れなかったが、上層部の桧皮に火が飛んで来る事など想定しなかったと言うことですね。
図書館には、誰一人見ることの無い本が多数有るかと存じます。事実、山槐記は手垢一つついていませんでした。検索しなければ誰も知らないもの。貴ブログの価値は、地元の人でも知らないその貴重な物を探しだして紹介していると思います。
拙句
枯葉中ひよつこり咲いてる帰り花
sakura
太平記
自閑さまこんにちは!
自閑さまのご見解にさすがと思い、法勝寺の塔のことをより詳しく知りたくなり、
図書館に行ったついでに、兵藤裕己校注「太平記」(3)岩波文庫、2015年
「巻21・法勝寺の塔炎上の事」(底本西源院本)を読んできました。

「康永元年3月22日、岡崎の在家より俄に失火出来して、
四隣の在家一両宇焼失しけるが、わづかなる細くず一つ、
遥かに十余町を飛び去って、法勝寺の九重の塔の上に落ち止まる。
暫くが程は燈炉の火の如にて、消えもせず燃もせで見へける間、
寺中の僧達、身をもがいていかがせんと周章迷ひけれ共、
登るべき梯もなく打ち消つべき便りも無れば、ただ徒に空をのみまもり揚げて
手をあがいてぞ走りたりける。さる程にこの細くず
乾いたる桧皮に燃え付いて、黒煙天をかすめて焼け上る。云々」とあり
五層目に燃え移ったとの記述はありませんでした。
「五層目の屋根の檜皮に燃え移ったとある。」というのは、
私の聞き違いかとも思いましたが、「太平記」には諸本があるのでと思い直し、
ネットで検索して見ると、
近代デジタルライブラリー - 太平記詳解. 自17の巻至24の巻
kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877615/100
法勝寺の塔の五重の上に落留まる。とありました。

地元の図書館で「山槐記」を閲覧させてもらいました。
山槐記3冊は館外持ち出し禁止の扱いになっているため、
図書館で閲覧しただけですが、自閑さまのお陰で、
この資料を手にすることができました。ありがとうございました。

jikan314
Re:「山塊記」の検索と法勝寺のご報告ありがとうございます。
sakura様
ご教示有難う御座います。
私は、多層階になると、全体重量を削減しなければ、木造建築では支えきれないかと。デパートでも1、2階は、重い大理石でも、3階以降は薄くかるい建設資材を使用します。
低層階は重い瓦を使用しても、5層以上は桧皮葺きを使用していたので、燃え移るとともに焼け焦げた瓦も出土したのでは?と思っております。これは、考古学、建築学の専門家が考える事ですが。

鹿や鴛鴦などの写真を撮りましたので、今後の新古今のブログに付けようと思います。
sakura
「山塊記」の検索と法勝寺のご報告ありがとうございます。
いつも利用している図書館には「源平盛衰記」さえ置いてなく、
市内の別の図書館から取り寄せてもらわないといけないので、
貴族の日記などないものと思っていました。あれば一度手にしてみます。

基壇の石よくお気づきになりましたね。さすが名探偵!
現地説明会の資料を入手されたそうですから、
そこに書いてあるかも知れませんが念のため。

「南北朝時代の歴応5年(1342)3月の火災で寺の南半分が焼失した。
この時の火災について『太平記』には、寺の近くにあった
民家の火災の飛び火が塔の檜皮屋根に燃え移り、
法勝寺伽藍の大半が焼失する壊滅的な被害となったと
記述されている。」(講座資料より)
このことから八角九重の塔は檜皮葺と考えられてきたが、
2010年瓦が出土し、この塔は瓦葺らしいことが分かった。
「太平記」には、五層目の屋根の檜皮に燃え移ったとある。
一層目は裳階、これをいれると塔は十層になる。(その時の私のメモ書き)


jikan314
Re:こんにちは!
sakura様
実は平家物語の全集本に山槐記の記載が有り、興味を持ち、京都市の図書館検索で伏見にありましたが、大阪府立図書館の横断検索では、大阪市、高槻市、豊中市にも有ります。今度試してみて下さい。日記を理解しているかと誤解されていらっしゃいますが、地震三度など小学生でも分かる単語をピックアップしているに過ぎません。日付は方丈記、平家物語解説に記載されている付近を探したと言う訳です。只、読めない字をスマホで入力するのに手間取りました。読めないと入力出来ませんから。(笑)
何故か地震学者が、元暦大地震だけ詳しいのは、山槐記を読んでいたからと云う事が判明しました。

法勝寺九重搭散策報告します。
イーストギャラリー内の瓦には黒い焼けた跡らしきものがありましたので、1206年の落雷による火災時の物かと思いますが、それは専門家に任せて大地震の際の落下と拙ブログではしました。この落雷の際、慈円は後鳥羽院の除厄の為の護摩を行っており、院に本来行くべき厄を法力により、九重搭に向かわせたといい加減な…いえいえ、天台宗座主の法力の験を現したとしています。
三枚目の写真の石は、貴ブログでおじさんが座ってた基石と同じで、クマやシカの前に平気で置いてあったり、埋め込まれていました。意味不明の穴などから、基壇の石かと。
白河流域で、液状化が起こり、被害が酷かったと推察しております。震源により近い比叡山より、被害が大きい事が慈円の愚管抄で判ります。
巖が落石して川を塞き止めたのは、高野川の野瀬辺りと推察しております。長明にとっては、鴨川と高野川の河合の社に居たのですから。

又、御来室頂ければ幸いです。コメントを頂けると励みに為りますね。
sakura
こんにちは!
源平合戦に決着がついた直後、京都は元歴の大地震に襲われ、
その余震が三ヶ月ほども続いたことを、「山槐記」から
掲載していただきまして、ありがとうございます。

公卿の日記などは、関係資料に抜粋されている数行で知るだけで、
京都の図書館か大学の図書館でなければ目にすることができません。
文字変換だけでも大変な作業と推察しております。

昨日、訪ねてくださいました法勝寺の塔もこの地震で崩壊したのですね。
平家物語には、「白河の辺、六勝寺皆破れ崩る。九重の塔も
上六重振り落とし…」とあり、「山はくづれて、川は埋み、
海は傾きて、陸地をひたせり。土割けて、水涌き出で、巌割れて、
谷にまろび入る。」と地震の凄さを、自閑さまが
ご研究されている「方丈記」も伝えています。

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