ユジンと別れたミニョンは、魂が抜けてしまったように、仕事に集中出来なくなっていた。次長が一生懸命工事の説明をしているのに、ぼんやりと一点を見つめて考えこんでいる。キム次長は見かねて口を開こうとした。すると、ミニョンが我に返って話し始めた。
「先輩、僕しばらく休暇をとりたいんですけど、いいですか?」
キム次長はほっとして了承をした。最近のミニョンのことが心配でならなかったからだ。少し休んで気分転換してほしいと思うのだった。
ミニョンは夜の山道を運転して、別荘にやってきた。別荘に来るのはユジンとの逃避行以来だった。あれから随分時がたったように感じた。真っ暗な別荘は、自分の心のように冷え込んで、寂しげに見えた。
ドアを開けて中に入ると、一瞬ユジンの香りがした気がした。明かりをつけると、あの日のように、心配そうな顔をして窓の外を見つめているユジンの姿が見えた。瞬きをすると、その姿は消えた。
ミニョンはついに幻まで見るようになった自分に驚いていた。まさか、韓国に来たことで、こんな展開になるとは思いも寄らなかった。ユジンに出会う前は、なんでも思い通りに人生は進んでいた。努力すれば溢れる才能で、仕事も役職も手に入れることが出来た。洗練されたルックスと自信に満ち溢れたパーソナリティで、周囲の人を魅了した。
今まで自分が望んで手に入らないものはあったのだろうか。何ひとつなかった。もしあったとしても、そんなこともあるさ、と肩をすくめれば、さほど心を痛めることもなく、すぐに忘れてしまった。今思えば、全てが自分中心に回っていて、関係ないことは取るに足らない事のように感じて、気にもとめていなかったのだろう。
しかし、ユジンを愛して、そして愛されるようになってから、自分の中で何かが変わったのだ。それはユジンが本当の愛を教えてくれたからだった。それは自分への愛だけではなく、今は亡きチュンサンへの愛を目の当たりにしたからこそ、学んだことだった。
相思相愛だけが愛ではないこと
相手を思いやること
相手の幸せを願うこと
時には自分が身を引く選択もあること
相手に尽くし尽くされること
心の奥底で結び付き合うこと
時には愛情を心にしまっておくこと
ひどいことをされても許しの気持ちを持つこと
ただただ待つ時間もあること
その時間がまた愛情を育てること
ユジンから学んだことは数知れなかった。
そして今ミニョンは、真実の愛とは忘れようとしても忘れられないものだと、身を切られる思いで感じていた。今まで眠っていた細胞がひとつひとつ目醒めて、剥き出しになったように、心がヒリヒリと痛かった。この荒れ狂う感情をどうしたら良いのか、ミニョンは途方に暮れていた。そして、部屋のスイッチを静かに消した。自分の心のスイッチもパチンと消せたらよいのに、と思いながら。
サンヒョクの父、ジヌは大学構内のポスターを眺めていた。そこには、
『天才ピアニスト、カンミヒ、10年ぶりの凱旋公演!』と書かれていた。ジヌは静かにそれを見つめると、決心したように歩き始めた。
その日の午後、サンヒョクとDJユヨルは、カンミヒのコンサート会場で興奮しながら話していた。
「インタビュー嫌いだから上手くいくかなぁ。」
二人はサンヒョクの番組に何とかミヒに出てもらおうと画策していた。
そんな二人に気がつかずに、サンヒョクの父ジヌがその後ろを通って、ミヒの楽屋に向かうのだった。ジヌは躊躇いがちに楽屋に入ろうとした。すると、フルメイクにラメの入った紫色のドレスを着たミヒが楽屋からスタッフと話しながら出てきた。ミヒはジヌに気が付かずに、通り過ぎて行った。ジヌも久しぶりに会うミヒにきおくれしてしまい、声を掛けることができない。ボンヤリとミヒの後ろ姿を見ていると、ふいに誰が声をかけてきた。
「父さん!」
サンヒョクだった。サンヒョクはなぜこんなところに父親がいるのか分からずに困惑していた。そして、振り返ってジヌを認識したミヒの目に、激しい驚きの色が浮かんだ。ジヌも狼狽して視線を落とすしかなかった。サンヒョク、ジヌ、ミヒ、三者が凍りついたまま、しばらく動けなかった。
その頃ミニョンは別荘近くの川で釣りをしていた。その川は、夏になると泳げるとユジンとミヒに話した場所だった。夕陽に水面が反射して、キラキラと煌めいていた。釣りをしていると、心が空っぽになって良い気分転換になった。
するとそこにひとりの男がブラブラと歩いてきた。ミニョンの魚の網を手に取った。
「釣れているかい?ありゃー、ここはよく釣れる場所なのに、これだけかい。見慣れない顔だけど、最近よく会うな。」
「ええ、旅行で来たんです。真冬には氷上釣りも楽しめそうですね。」
「あんた、全然川をを知らないなぁ。浅そうに見えても、実は深いんだよ。毎年死人が出てるよ。俺も昔ここで、溺れた子供を助けたことがあるんだ。もう20年になるかなぁ。」
「ふーん、そうですか。」
「だけど、助けた甲斐がなかったな。俺だったら命の恩人には毎年会いにくるもんだけど、あいつは全く来ないんだ。本当にチュンサンのヤツは薄情だなぁ。」
釣竿を片付けていたミニョンの手がピタリと止まり、その男性をマジマジと見つめた。
「今なんて?」
「ああ、あんたを見てたらあの時の子供を思いだっしゃって。もうあんたぐらいの歳なんだけどなぁ。」
「その子の名前はなんておっしゃいました?」
「チュンサンだよ。チュンサン。おい、あんたどうしたんだ?」
男性はびっくりしてミニョンを見つめた。ミニョンの顔は呆然としていて、どんどん真っ青になっていった。
母がこの川とアメリカを言い間違えて溺れたと言っていた自分。
この男性が助けたというチュンサンという少年。
二人の驚くべき偶然に、心の中に言い知れぬ不安が湧き起こったのだ。そしてしばらく動けないでいた。