フロムYtoT 二人に残された日々

私と妻と家族の現在と過去を綴り、私の趣味にまつわる話を書き連ねたいと思っています。

息子への想い

2020-10-08 23:25:34 | 【過去】息子への想い

 2日前から私にとって5人目の孫ですが、息子の嫁が陣痛で入院し(陣痛は落ち着き退院しました)、長男の孫を2人預かっていました。今夜は久しぶりに2人だけの夜です。

 騒がしいけれど、たのしい2日間でした。

 妻は、この2日間、急に、子供のように手がかかる夫(私はそうは思っていませんが、妻はそう思っていると思います。私は一人で机に座っているのが好きです)の他に、孫のために朝早く孫のために起きて朝食の準備をし、孫の幼稚園の送り迎え、子守などが加わり、大変だと思いいます。

 2人だけの生活に戻り、私が赤霧島の水割りを作りに台所に行ったついでに妻のお尻をちょっとだけ触りました。

 妻は、

 「youさん。ナンシヨット。触ランデ。警察言うよ。タバコ吸いヨロウガ。酒も飲みすぎ、臭いよ。皆に嫌われトウヨ」と次々に責め立てます。

 私は妻の言葉を背に自室に籠もります。(そこまで言ワンデヨカロウモ。)

 

以下は息子の高校時代に机に置いた手紙です。

 

 お父さんにとって自分の命より大切なものは、おまえを含めた「家族」だ。「家族」の「和」を乱すことは例えおまえであっても許さない。

 今回のこと、おまえが全て悪いとは思っていない。おまえがお母さんの手伝いをしていたことも知っているし、自分なりに「家族」に気を使っていたのは事実であろう。しかし、事が大きくなるきっかけを作ったのは、紛れもなく「おまえ」だ。そして、いつまでも「自分」の感情に流されていた。挙げ句の果てには「暴力」で押さえ込もうとした。

 

おまえぐらいの年頃は自分自身の考え方に凝り固まって、自己を正当化しようとする。しかし、自分を正当に評価するのは「自分」ではない。「社会」なんだ。それが「現実」なのだ。前にも言ったと思うが、人間は不特定多数の人間の集合体である「社会」の中でしか、自分の「存在」を見いだせないのだから・・・・・・。お父さんも偉そうに言っているけれど、未だに「自分」と「社会」の狭間で悩んでいる。

 

お父さんは、おまえと同じ年頃の頃はおまえと同じようなものだった。コソ悪で、もちろんタバコ吸っていたし、よからぬところに出入りしたこともある。知っての通り音楽も大好きで、ロックをガンガン聞いていた。しかし、二つ大きく違うところがある。

 一つは、暇な時間はゲームやテレビを観るより、本を読むか、映画を観るかに費やしていたこと。(これは時代の違いもあると思うけれど、おまえももう少しまじめな本を沢山読んだ方がいい。想像力が養われる)

 もう一つは「女を悲しませる男は最低だ」と強く思っていたこと。どうしてお父さんがそう思うようになったかはおまえがもう少し大人になってから話すが、女とは彼女のことだけでなく、「母親」「姉」「妹」を含めての話だ。

 おまえは「母親」や「姉」がやっかいなものであると思っているだろう。また、母親や姉や妹は女ではないと思っているだろう。しかし、おまえが大好きな彼女も同じ「女」だ。いづれ同じようになる。母親や姉と同じような存在になる。全く同じだ。

 屁もするし糞もたれる。それを理解できないうちは女を愛する資格はないね。女を「愛することが何か」「愛されることが何か」を分からないまま一生を終える。つまり「女」をただ自分の欲望の対象と思っている人間、欲望の対象にならない女は「女」ではないと思っている人間は「男ではない」と言うことだ。(ただの畜生だ)

 

 お父さんは「男気」とか「男らしい」とか言う言葉が好きで、いつも「男気のある人間でありたい」とか「男らしくありたい」とか思っている。なかなかそうはなれないのだけれど、一般的な基準から言えば、少しは「男らしい人間」とか「男気のある人間」になれたのではないかと思っている。仕事では「男気」を出しすぎて窮地に陥ったこともたくさんあるけど、それを損をしたとは考えたくない。「損得抜きで何かに打ち込むことができること、他人のために尽くすことができること」、それが「男気」だと思っている。「男らしい」とは、「自分の意志を持ち、それを譲らず、しかも女に優しいこと」だと思う。

 

 おまえが「男と女は違う。男は血が騒ぐもんだ」というようなことを言っていたけど、正しくおまえの言うとおりで、男と女は違う。心理学的に言うと「リビドー=行動の源となる性的欲望」の発達過程の違いで、男は一般的に「血が騒ぐ」ものなんだ。

 お父さんは「リビドー」の強い人間で、いつもその処理に困っている。(間違っては困るが、単なる性的欲望ではなく、行動の源となる性的欲望だ。でも同じようなものかもしれない)しかし、「血が騒ぐ」ということは大切なことなんだ。おまえの考え方は間違っていない。

 

 おまえが間違っているのは、この前言ったように「自分」と「社会=家族」の距離の置き方だ。自分自身で自分の身の回りに「垣根」を作り、その垣根を高くしている。その垣根の中に閉じこもろうとしているように見える。「自分自身に忠実になること」「自分を大切にすること」とは何かをもう一度よく考えてほしい。

 

 「家族」に優しくできないのは、おまえの「家族」に対する「甘え」だ。おまえがお父さんのように「女を悲しませる男は最低だ」とは考えなくてもいいけれど、もう少し「家族の女性」に対して「男」として大らかに接してほしい。おまえはもう立派な「男」なんだから・・・・・・。

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息子の15才の頃

2020-09-09 21:04:22 | 【過去】息子への想い

 今日はgooブログで、いろんなところの旅の話や自分が買っているネコの話などを題材にしておられる女性のブログを拝見しました。爽やかな話が多くて、感激して、異常なくらいに、ポチッを送りました。たぶん「誰だ、コイツ」と思っておられると思います。(私です)まだ、このブログを初めて2ヶ月あまりなので許してください。

 これから何回かに分けて、息子の記事をアップしようと考えています。

 息子は中学時代、県下でトップの高校(毎年、国立の医学部だけでも、かなりの数が合格します)に一番合格者を出す中学校に通っていました。身長は私に似てホビット族に近いのですが、顔はカワイイ(私に似て?)、成績は常に10番前後、スポーツは万能、生徒会では2年間副会長を務めていて、妻も私も、末は博士か大臣(トンビが鷹の子?)かと思っていました。妻は近所のママたちからも羨望のまなざしを浴びていたと思います。

 中学3年生の終わり頃から反抗期に入り、高校に入ってからは成績も落ち、遊び回って、見る影もなくなりました。(トンビの子は、トンビ。でも私はトンビの哀愁に満ちた鳴き声が大好きです)

 その頃から妻と長女との諍いが多くなってきました。二人とも言葉がきついのです。(今でも??) 聞きづらいほどの言葉で息子を責めていました。それで、責め立てられた長男が言葉を無くしてキレてしまうのです。

 二人の言葉に反論できなくなった息子が、私には許せない言葉を妻に吐くのです。

 その言葉に、

 「おまえ、お母さんに何イヨウトカ!!!!。お母さんに謝れ!!!」

 そして、長男と私の、男を賭けた取っ組み合いが始まりました。

    妻は「やめて。喧嘩センデ。喧嘩センデ」と繰り返して いました。

 それから数分たって、長女が、

 「お父さん、もうやめたら」なんてことを言いました。

 私は、諍いの原因を作ったのはおまえたち3人で、主因は息子にあるにしても、長女が自分の弟を諭すでもなく、私に非があるような言い方をしたのがショックで、それから私は自室に籠もって、泣いていました。

 息子も部屋で泣いていたと思います。

 それから、性懲りも無く、もう一度、息子と取っ組み合い喧嘩をしました。

 私は、今、息子と話をしても、必ず喧嘩になると思い、私の思いを手紙で伝えようと思いました。息子がいない時間を見つけて、息子の机に手紙を置きました。息子からの返事は一度もありませんでした。ただ、私の気持ちは伝わっていると思います。

1つめの手紙、

 

今回のこの課題を与えられる前から、お父さんはおまえに、お父さんの思いをいつか伝えたいと思っていた。だからこの課題を与えられたとき、今の時点で、15歳というおまえの年齢を考えた場合、どれだけ、どこまで、おまえに話したらいいのか、逡巡を繰り返した。しかし、もしこの機会を逸したら、なかなか伝える機会は来ないかもしれない。そう考えて、堅苦しい話になるが、ちょっと真面目な話をさせてもらう。

 

 まず、おまえは、これから本当の意味で、「自分の人生」を歩み始める。今までの自分の人生が、本当でなかったわけではない。しかし、おまえがこの世に生を受けて、これまでの間、おまえの人生はごく限られた環境の中にあった。家族とか、仲の良い友達とか、そういった自分を庇護してくれる人間、自分を愛してくれる人間、自分を好んでくれる人間とともにあった。時にはおまえの嫌いな人間との確執や、自分が好きだと思った人が自分を好んでくれないという悲哀も味わったかもしれない。だがそれは不特定多数の人との関わり合いではなく、あくまでも限られた自分以外の人間との関わりであったと思う。そして、それはどちらかといえば受動的なもので、世の中に対する積極的な、能動的な関わり合いではなかったと思う。今おまえは、世の中(社会・おまえが置かれている環境)とか、これから先の自分の人生とか、ひとりの人間としての生き方とかいったものを考えはじめて、積極的に世の中と関わっていこうとしているように思える。それは、お父さんから見れば、おまえという人間の最近の目に見える変化で、お父さんはとても嬉しく思っている。

 

 「個人は、自分一人で生きるのではなく、いつの時代にも他の個人とともに存在し、他の個人となんらかの形でかかわりあいながら生存する。そしてそれこそが、人間が生きていく上で最も基本的な、歴史を超えた普遍的条件なのである。」

                                                       -スターン-

おまえが、これからどう世の中と付き合っていくのか。それはおまえ自身の問題だ。おまえが世の中をどう捉えるか、どう捉えてどんな生き方をするか、それはおまえが選択していかなければならない。それをお父さんやお母さんが決めることは出来ない。なんとかおまえが賢明な選択をして、幸福な人生を送って欲しいと願うばかりだ。

 

 「幸福な人生を送るためには、まず第一に、心が健全であり且つその健全さを絶えず持ち続けることである。第二に、心が強く逞しく、また見事なまでに忍耐強く、困ったときの用意が出来ており、自分の身体にも、身体に関することにも、注意は払うが、心配することはない。最後に、生活を構成するその他もろもろの事柄についても細心であるが、何事にも驚嘆することはなく、運命の贈り物は活用せんとするが、その奴隷になろうとはしないことである。」            -セネカ-

 

エーリッヒ・フロムという心理学者(哲学者)がいる。フロムはお父さんが大学時代に読んだ「愛するということ」という本の中で、「愛は技術である」そして「熟練を要するものである」と説いている。お父さんは「生きる」ということも、技術であり、熟練を要するものであると考えている。お父さんのいう「生きる」ということは単に生存するということではなくて、「いい人生を生きる」「満足度の高い人生を生きる」「幸福な人生を生きる」ということだ。

 

 チャップリンの「モダンタイムス」という映画の中で、主人公が大きな機械の歯車をロボットのように機械的に次から次に締めて回っている場面がある。そしてやがて主人公がその歯車の中に巻き込まれていくシーンがある。お父さんは、その場面が今でも印象に残っていて、あんな風な生き方はしたくないと思っていた。この世に生まれてきて、この世の中で生きていく以上、少しでも大きな歯車に成りたいし、少しでも重要な歯車でありたい、出来れば機械を動かす立場でありたいと思っている。

 

 お父さんの人生はある意味では既に決まっている。銀行員としての自分、おまえ達の父親としての自分、お母さんの夫としての自分、世の中でのお父さんの位置は、ほかの物で置き換えることの出来ないものである程度固まっている。

 

 だが、おまえの人生については、ほとんど何も決まっていない。これから自分で社会のなかでの自分の位置を見つけていかなければならない。それも少しでも高い位置、少しでもいい位置を目指して欲しい。高い位置を目指すには、低い位置で満足している人よりも何倍も努力が必要だ。苦痛もより多く味わうこととなる。しかしその努力を怠って、平々凡々と日々を過ごしていたとしたら、高い位置に到達することは絶対に出来ない。

 

未開の地に生まれた人間は幸せだろうと思うことがあるだろう。確かにそこに住んでいる人々は、日々の糧さえ窮することがなければ、幸せだと思う。受験戦争もなければ、自分を翻弄させるような誘惑もない。しかし、重要なことはそこで暮らす人々がそこしか知らないということだ。その環境が幸せな環境なのではない。我々がその環境で過ごしたとしても、彼らが我々の環境で過ごしたとしても、とても幸せと感じられるものではない。ひるがえって考えて見れば、我々もここしか知らないのだ。いま自分が置かれている環境(世の中)から逃れることはできない。そうであれば、いま置かれた環境のなかでどうすれば「いい人生」「満足度の高い人生」「幸福な人生」を送ることができるか、そのために何をすればいいのかを考え、そして、具体的に、積極的に行動を起こしていくことが必要だと思う。

 

 「人生について我々は短い時間を所有しているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気づかされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。」                -セネカ-

 

 知識は生きていくうえでの自分のもって生まれた能力の不足を補う道具(ツール)だ。そして、その道具を使いこなすためには技術(スキル)がいる。どんな知識でも役に立たないことはない。かならず自分のもって生まれた能力を補ってくれる。ただし、この道具を使いこなす技術を習得する必要はある。また、いくら知識が豊富でも、それを使いこなそうとする意欲がなければ宝の持ち腐れだ。知識の豊富な人間になって欲しい。そして「いい人生」をおまえが生きることが出来るように、それをうまく使いこなす人間になって欲しい。

 

 

 

「何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。

・・・・・ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。・・・・・・・すべての果実は苺と同時期に実ると思いこんでいる者は葡萄について何一つ知らない。」                                                -パラケルスス-

 

 いい大学に入るということ、そのことだけを考えれば、それでおまえという人間が価値のある人間ということにはならない。しかし、いい大学に入れば、それだけ志の高い人間、自分と考え方を共有出来る人間に出会う可能性も高くなる。そして、そんな人間と出会うことにより、おまえの人間性も磨かれる。また、豊富な知識を自分のものにする機会も多くなる。そして、社会に出た場合、おまえはそれだけ努力をしてきた人間、勉強をする苦痛に耐えてきた人間、知識が豊富な人間として、そうでない大学を出た人間より、より多くのチャンスを与えられるだろう。(そのチャンスを活かすことができなければ、それまでだけれど・・・・・・)与えらたチャンスを見事に自分のものにしたならば、社会がそれを認めたならば、また、さらに大きなチャンスを与えられるであろう。それは自分の人間性をさらに大きくし、そうして、少しづつ、おまえは社会のなかで人間として高い位置に登っていくことになろう。

 

地位や名誉や財産が「幸福な人生を生きる」ための必須条件ではない、しかし、大切な条件のひとつであることは確かだ。

王侯貴族がかならずしも幸せとは限らないが、現代のように誘惑の多い、情報に溢れた時代にあっては、ある程度の地位や名誉や財産なしで、「満足度の高い生き方」をすることは難しい。地位や財産や名誉に目がくらみ、その奴隷のような生き方をするならば幸福を感じることも少ないだろうが、それを自分が身につけた道具のひとつとして、うまく使いこなす技術を持っていれば、より高い満足を得られることも間違いない。おまえが「満足度の高い人生を生きる」ために、目標は高く持って欲しい。志は大きく持って欲しい。

 

 

 

最近、おまえが急に大人びてきて、お父さんは少し戸惑いを感じている。意志的で気力に溢れた眼、妙にイライラして自分を持て余している様子、お父さんは、あわてて自分がおまえと同じ年頃だったときに自分がどう考えていたかを思い出そうとする。そして、おまえも、あの頃のお父さんと同じようなことで、悩み苦しんでいるのかもしれないと考える。

ほんの些細なことで・・・・・・、しかし、とても重要なことで・・・・・・。

 

 自分の能力を信じて精一杯生きていって欲しい。前のめりに生きていって欲しい。

そして、おまえひとりだけではなく、おまえの周りにいる人も自分が幸せにするのだという気概をもって生きていって欲しい。

 

欠陥ある社会は能力を要求する

現代は能力の時代である

あらゆる社会が能力を探している

空位空名は更にかえりみていない

活躍すべき自由の天地が待っている

腕がふるいたくば

まず能力をつくれ

能力の前には不平がない

わが悲運に泣かんよりは

無力無能の悲哀に泣け

               -後藤静香-

 

                                         お父さんより 

  

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