愛を読む人
昨日から熊本にいる末娘と孫が来ていました。我々夫婦にとっては6番目の孫(すべて女の子 )で、二歳の可愛い盛りです。97歳の義父も、普段は昼は寝たり起きたりなのですが、終始テーブルに腰かけて、孫娘を笑顔で見守っていました。私は、やらなければならないことを後回しにする性格が出て、先週持ち帰った仕事があるのですが、末娘が帰った後、仮眠をとって、ブログを更新しています。
罪悪感はあるのですが、明日一日時間があるので(火・水の二日勤務です)、なんとかなると自分に言い聞かせて、ブログと向き合っています。
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本日は「愛を読む人」です。この映画の原作は『朗読者』というベルンハルト・シュリンクが書いた私小説で、ベルハント・シュリンクはドイツの法学者(専門公法学)で、ボン大学やフンボルト大学などで教鞭をとる傍ら数多くの小説を執筆し、その代表作とも言える作品が『朗読者』です。
監督はスティーブン・ダルドリー。「愛を読む人」は、第81回アカデミー賞に作品賞を含む5部門にノミネートされ、ケイト・ウィンスレットが主演女優賞を受賞した。主演女優は当初にコール・キッドマンが予定されていたが、妊娠のためケイト・ウィンスレットが起用され受賞を手にしました。
ケイト・ウィンスレットは数々の受賞歴を持つ女優です。
- アカデミー賞
- ゴールデングローブ賞
- 2008年度主演女優賞 (ドラマ部門) 『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』
- 2008年度助演女優賞 『愛を読むひと』
- 2011年度 女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門) 『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』
- 2015年度助演女優賞 『スティーブ・ジョブズ』
- 英国アカデミー賞
- 1995年度助演女優賞 『いつか晴れた日に』
- 2008年度主演女優賞 『愛を読むひと』
- 2015年度助演女優賞 『スティーブ・ジョブズ』
- ロサンゼルス映画批評家協会賞
- ロンドン映画批評家協会賞
- 1995年度 英国主演女優賞 『乙女の祈り』
- 2004年度 英国主演女優賞 『エターナル・サンシャイン』
- ヨーロッパ映画賞
- 1998年度 観客賞 (女優賞) 『タイタニック』
- 2001年度 観客賞 (女優賞) 『アイリス』
- 2009年度 女優賞 『愛を読むひと』
- クリティクス・チョイス・アワード(放送映画批評家協会賞)
- 2008年度 助演女優賞 『愛を読むひと』
- 全米映画俳優組合賞
- 1995年度 助演女優賞 『いつか晴れた日に』
- 2008年度 助演女優賞 『愛を読むひと』
- グラミー賞
- 2000年度 Best Spoken Word Album for Children 『Listen To the Storyteller』
- エミー賞
- セザール賞
- 2012年 名誉賞
私は1997年の「タイタニック」で彼女を知り、2008年の「愛を読む人」で彼女のファンになりました。彼女は多数の映画で主役や脇役を演じていますが、半分程度は実際に映画館で、またはDVDで観ています。彼女は家族全員俳優という環境で生まれ、自らも俳優として人生を歩んできています。彼女の名演技はやはり血筋なのだと思います。
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もう1時を過ぎてしまいました。
これ以上夜更かしをするとtakaちゃんに、
「昨日も遅くまで起きとたろがぁ。わかっとうとよ。そうやけん、朝が起きれんかろうが」と詰られます。
次回は、この作品のあらすじと私の想い、数あるコメントに対する私の意見についてお話をしたいと思います。水曜日ぐらいかな。
『映画 哀愁』との出会い
出典wiki
私と映画との出会いは高校に入学してからのことです。洋楽との出会いは中学生の頃題名は忘れましたが、テレビで放映されていたモンキーズが主演のドタバタコメディで流れるDaydream Believerなどの曲や、「シャボン玉ホリデイ」で流れる外国の曲を聴いて、はまってしまいました。その後、「ラヴ・ミー・ドゥ」などの曲でビートルズに出会い、サイモン&ガーファンクル、クイーン、ピンクフロイドなどを聞くようになりました。
私の家は貧しかったのですが、高校生になったときに、母は、おこずかいを2,500円に上げてくれました。私は地元の三角公園の近くにある、洋画映画館の500円の学生会員に入会して、それから休みの日は月に2~3度、朝から晩まで、映画館で映画を見ていました。料金は学生会員料金で250円だったと思います。
その当時の映画館は一回入ったら出るまで同じ料金で、基本的に2作から3作の上映していました。たぶん高校時代の3年間で毎年 70作程度の映画を見ました。
その後大学に進み、社会人になって、回数は減りましたが,良いと思う映画があれば時には妻と一緒に、時には一人で観にいっています。
たぶん高校時代に観た映画で私が忘れられない映画の一つがこの映画です。
この映画の主題歌は「蛍の光」で、私たちが幼いころ別れの詩として記憶しているものです。実はこの曲は「オールド・ラング・サイン」とうスコットランド民謡なんですね。
日本の「蛍の光」の歌詞はスコットランド民謡の歌詞とは違いますが、私たちの年代の日本人には心に響く歌詞ですね。
この映画は1940の作品ですから、私が生まれる13年前の作品です。
私がこの映画を見たのは、たぶん高校生の頃です。私は、まだ子供で、家族以外の人間を愛することも、家族以外の人間から愛されることも知らない年齢でしたが、何故かこの映画を見て涙腺が爆発しました。
それから50年余りの間に何度かこの映画を見ましたが、この作品はいつも私の涙腺を刺激してくれます。
『哀愁』ストーリー
第二次世界大戦が勃発し、イギリスが参戦した1940年燈火等制下のロンドン。ロイ・クローニン大佐(俳優ロバート・テイラー)はフランスへ赴任するためウォータルー駅へと車を向かわせている。
物語の主軸は第一次世界大戦での物語であるが、時を経て、第二次世界大戦が勃発した後のウォータールー橋に佇むロイ・クローニン大佐の場面から始まる。駅に近くのウォータールー橋にさしかかると大佐は車を止めるよう指示し、車を降りる。霧に霞む欄干に佇み、出会いから20年以上がたち、初老の紳士となったロイが、ポケットから小さなお守りを取り出し、それを見つめながら過去へと思いを馳せる。
1917年、彼は当時25歳の陸軍大尉であった。スコットランドの名家クローニン家に生まれ、軍人として第一次世界大戦勃発のためフランスへの出征の途上であった。
空襲のサイレンが鳴り人々はウォータルー駅の避難所へ駆け出す。途中、近くにいた女性が何か落とし、ロイはそれを拾って彼女を追いかけ、共に避難する。
そこでお守りの持ち主であるマイラ(俳優ビビアン・リー)はロイの幸運を願ってお守りをロイに託す。まだ女学生のような彼女はマイラと名乗った。オルガ・キローワ・バレー団のダンサーなのだ。ロイは彼女の舞台を見物すると、夜食に誘ったのであるが、厳格なキローワ女史はマイラに外出することを禁じた。
しかし彼女は親友のキティの助けでぬけ出してロイと会った。翌日、ロイはマイラを訪ねて結婚を申込み、その次の日、式を挙げる約束が出来た。ところがその晩,彼女は速達便を受取った。出発命令が下ったから直ぐ立つ、会いたい、というのである。マイラは飛出して駅へかけつけたが走り行く車上に立つロイの姿を見ただけであった。劇場に急いでもどると、舞台に穴をあけたというのでキローワ女史はクビを申し渡し、マイラの弁護をしたキティも諸共クビになった。
貯蓄の全部をはたいて結婚衣装を買ったマイラは、ロイからの手紙で、ロイの母に会いに行った。その約束のカフェでロイの殉死の報を新聞で見て卒倒した。それから2ヵ月間マイラは病床にふした。
マイラは、キティが二人の生活費を稼ぐため、夜の女(娼婦)となっていることを、全快して初めて知って、その友情に泣かされた。そして今やロイ亡きあと何の生がいもなくなったマイラは、自らもキティと同じ道に身を落とした。それから1年、ウォータルー駅でマイラは凱旋して帰ったロイと偶然会った。彼女が待っていてくれたと思って喜んだ彼は、彼女の身の上の変化に気がつかず、彼女をスコットランドの家へ伴った。
マイラはロイへの愛がすべてである。その他のあらゆる事は関係ないと、自分自身に言い聞かせたが、もしも彼女の1年間の行状が知れれば、ロイの破滅となるに違いないと思い直して、ロンドンへひとり帰ってしまった。ロイはマイラのあとを追ったがマイラは身を隠した。マイラは思い出のウォータルー橋の上に、いつか来てしまっていた。何度考えても彼女は愛するロイに幸福を与えることは出来ないとしか思えない。思いつめたマイラは突進して来る軍用トラックの前に身を投げた。
<映画com引用>
ビビアン・リーは「風と共に去りぬ」「欲望という名の電車」でアカデミー賞を受賞するなど、数多くの映画や舞台で活躍した女優ですが、やっぱり、この映画が一番心に刺さります。そして大好きな女優の一人として、心に刻みました。
この映画はアマゾンプライム等で観ることもできますし、ネットでDVDを見つけることもできます。興味がある方は観てください、もちろん白黒映画です。
『ビビアン・リー略歴』
『風と共に去りぬ』(1939)より
本名 Vivian Mary Hartley
生年月日 1913年11月5日
没年月日 1967年7月8日(53歳没)
出生地 イギリス領インド帝国 イギリス領インド帝国・西ベンガル州ダージリン
死没地 イングランドの旗 イングランド・ロンドン・ベルグレイヴィア
国籍 イギリス
身長 161 cm[1]
職業 女優
ジャンル 舞台、映画
活動期間 1933年 - 1967年
配偶者 ハーバート・リー・ホルマン(1932年 - 1940年)
ローレンス・オリヴィエ (1940年 - 1960年)
著名な家族 スーザン・ファーリントン(娘)
出典Wikipedia