ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

洗脳か、 染脳か  :洗脳論 2

2013-12-31 18:11:40 | 言語考察

洗脳論 1で、“洗脳”という言葉のもつ危険性を指摘した。

「では、どうしたらいいのか?」 という問題が出てくる。当然だろう。こういうコンピューターウィルスのような言葉は使わないほうがいいのだろうか。

わたしの答えは、YES である。

その都度、もっと適切な用語を選んで使うことをお勧めする。いくつか挙げてみよう。

 

  洗脳 ではなく、  “思想改造”   と呼ぶ

これは非常にニュートラルで明確な表現であって、洗脳という語の論理的な意味をすべてカバーしている。いちばん無難な代替表現と言える。“洗脳”の持つ全体的(トータル)なニュアンスが十分反映していよう。ほとんど“強制的改宗”に近い意味をもつ。人間の思考内容の全体性、総体性を含意する語である。

 

 

2)  洗脳 ではなく、  染脳   と呼ぶ

これはすでに“洗脳”という言葉の矛盾に気づいたごく一部の人々がすでに使っているものである。これはたまたま発音が同じというメリットと、意味的にも論理的な整合性があるという優れたメリットがある。文字づらも、ちょっと見ただけは気づかないひともいるくらいである(“洗” も “染” も サンズイ である)。

“洗う” という概念には、 望ましくない付着物を流し去り、初期状態に戻すという意味がある。しかし“思想改造” は“すっかり洗う”という比喩よりも、その逆の“染め上げる” という比喩のほうがその意味にずっと近いと言えないであろうか。染脳” は意味的に抵抗なく了解されるはずである。

ちなみに、“”脱洗脳” という言葉があるので、一言いっておきたい。実は、“脱洗脳” こそ 言葉の論理的な意味で、 “洗”“脳” であるはずだ。

洗う という概念には、汚れを落として、元のきれいなニュートラルな状態に戻す という意味が含まれる。それならば、思想改造されてしまった、染め上げられてしまった “脳” を、元のきれいな状態に戻すことこそ、 論理的には、 “脳” であるはずである。

似たような例に、 “脱原発” がある。 これにひそむ歴史的染脳については、「原爆と原発は違う?」を参照されたい。

 

3)  洗脳 ではなく、  “マインド・コントロール”  と呼ぶ

“洗脳”は、本来、強制的な思想改造を指した。しかし、今日、いわゆる“洗脳”を口にするひとは、メディア経由の洗脳か、対面的洗脳であっても違法ではない洗脳を問題にしており、密室での拷問的な“洗脳”を意味する“古典的”ケースはむしろ例外であろう。

マインド・コントロールは非強制的で、多くの場合ターゲット側では無自覚な思想改造である。この意味では、テレビ、新聞、学校教育、宣伝広告といった多様な媒体を利用したものは、遠隔的、ステルス的という点でも、本来強制的な“洗脳”よりも “マインド・コントロール” と呼ぶほうが無理がないかもしれない。マインド・コントロールは介入性が低いが、継続性があるので浸透性が高い。

 

4)  洗脳ではなく、  “刷り込み”   と呼ぶ

メッセージを持たせたエモーショナルな写真や短い動画をテレビや新聞やインターネットといったメディアを使って、繰り返し露出して、ターゲットの人間の判断・行動を操作しようとするものである。テレビコマーシャルや車内ポスターが典型的である。企業の商品PRは意図が明確であまり罪がないと言えるが、さまざまな団体によるPR活動の中にはとんでもない目的や計画が潜んでいるものがある。 

 

5)  洗脳ではなく、  “思考操作”   と呼ぶ

今日のようなメディア支配社会では、政治的、商業的、教育的にあらゆる場面で人々の行動は操作されている。その操作は必ずしも大がかりなものとは限らない。むしろ卑近な、反復的なテレビコマーシャルやネットでの不快なポップアップ広告やターゲティング広告も広義での思考操作である。そうした断片的なものまで、“洗脳”扱いするのは無理があるだろう。もちろん “思考操作” が常に断片的とは限らない。 しかし、“思考操作”という言葉は 思想改造 レベルから 断片的なレベルまでカバーする。

 

6) 洗脳ではなく、  “情報操作”  と呼ぶ

さて、この情報操作と1つ前の思考操作はどう違うのか。実は、どちらも最終的には 行動操作 を目的としている。行動を操作するために、思考を操作する。そして、思考を操作するために、情報を操作しているのである。情報を操作するのは、それによって、思考を操作し、それによって、行動を操作するのが目的である。

情報操作 と言っても、その対象となる情報の範囲は無限である。文字、音声の言語情報はたしかに多いが、視覚的情報、たとえば、写真や映像の合成や改ざんも当然情報操作と呼べるであろう。

広くは、特定の情報の隠ぺいも情報操作に含められる。そして、特定の情報の誇張、誇大露出も情報操作に入る。もちろん、情報の歪曲、偏った編集も“りっぱな”情報操作と呼べるであろう。

さて、マルチメディア時代に入って、情報発信のチャンネルも多様化しており、操作の余地は爆発的に拡大している。情報を発信する側が計画的、意図的に操作するだけでなく、ほとんど職業的、無意識に偏向した編集をしているケースは常態化しているであろう。

 

7) 洗脳ではなく、  “ステルスプロパガンダ”  と呼ぶ

“プロパガンダ”は本来20世紀の戦争中のポスターのようにあからさまな大衆扇動の手段であったが、それが今日ではそれと気がつかれないような“ステルス”タイプに変わっている。見た目もセンスが良かったり、可愛かったり、ヒューマンタッチを盛り込んだりと、プロパガンダであることが気づかれないように作られている。昨今“ゆるキャラ”も頻繁に使われる。ポスター、ウェブサイト、TVコマーシャル、新聞広告など至る所に存在する。「もうばれているよ」という意味で “ステルス”を取って、単に “プロパガンダ”とも呼べる。

 

8) 洗脳ではなく、  “人心操作”   と呼ぶ

大衆心理操作と同じ。情報操作がミクロレベルの操作であるとしたら、この人心操作はもっと大局的なマクロレベルの操作と呼べる。人心操作はオーケストラであり、通例、指揮者としてのスピンドクター(人心操作専門家)が統括している。この組織的、多層的な情報操作において、個々の楽器のパート演奏がミクロレベルの情報操作と呼べるかもしれない。政策の推進、商業的キャンペーンなどでは当たり前になっているが、常に裏方として糸を引いている人間(主に広告代理店)は口が堅い。

 

9) 洗脳ではなく、  “ステルスマーケティング”   と呼ぶ

略してステマともいう。消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすることである。組織的で多層的なサクラ、ヤラセである。“情報操作”はもともと所与の情報をいじくるという受動的な面がある。しかし、ステルスマーケティングは、集客や人気向上のために、組織的に回し者*を動員・演出をして“人気”を捏造するという能動的な人心操作である。これは通常メディアに連携して増幅される。その操作の能動性は同時に欺瞞行為の積極性でもあり、かなり阿漕ぎな手法に属する。

*“回し者”:特定の団体の利益のために、その団体とのつながりを明らかにせずに工作する人間。通例見返りとしての利益を得ている。用例:回し者投稿、回し者インタビュー、その教授は東京電力の回し者だ ・・・ザウルスの定義)

 

10) 洗脳ではなく、  “被害演出”   と呼ぶ

上記8)と同様の手法が軍事的には“被害演出作戦”として昔から数多く遂行されている。これは開戦等の口実を作るためにありもしない“先制攻撃被害”を捏造するものである。これもメディア増幅を前提とした手法である。ボストンマラソン爆破事件が最近の例である。英語では元々 false flag と呼ばれ、日本語の訳としては“偽旗” がすでにある。しかし、“偽旗”でわかるひとがどれだけいるであろうか。“被害演出”は false flag のザウルス訳である。

 

11) 洗脳ではなく、  “捏造の史実化”   と呼ぶ

これは非常に高度かつ大がかりかつ組織的な思考操作である。これはまず、上記10)のような“捏造”もしくは“法外な誇大化”を、メディアのパワーと潤沢な資金力で強引に既成事実化することを指す。メデイアとしては映画、小説、証言集、記念碑、記念行事等のイベントなど、ありとあらゆる手段が駆使される。捏造、誇大化が暴かれて批判する者がいても、結果的には、演出されたでっちあげの出来事が事実として記憶され、数年後には歴史となる。これをなしうるのは莫大な資金源と組織力、場合によっては高度な頭脳集団を抱えた組織のみである。

例として、9.11の映画化、小説化、記念館建設、記念碑建立、 南京虐殺の映画化、小説化、記念博物館建設、 従軍慰安婦の映画化、小説化、証言集、モニュメント建立、 オサマ・ビン・ラディンの殺害の映画化、小説化などがある。特に最後のビン・ラディンの殺害は「ゼロ・ダーク・サーティー」として2013年2月に映画化されたばかりである(参照記事:「ゼロ・ダーク・サーティーはCIAのウソ」)。

2013年4月に起きたボストンマラソン爆破事件について、わたしは事件後このブログで、「これは必ず映画化される」と予言した(参照記事:「この“映画”は必ず映画化される」 )。事実この捏造事件の映画版は今年封切りされる運びで現在製作中である。

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“洗脳” は トロイの木馬

さて、以上見てきたように、 “洗脳” に代わる表現はいろいろあることがおわかりいただけたはずである。もちろん、上に挙げたもの以外の言葉もあるだろう。どれも、少しずつ意味領域が異なるので、これらを適宜使い分けることができるだろう。早い話が、もはや “洗脳” という言葉がなくても、これらによって、たいていのことは十分表現できると言える。

そもそも “洗脳” は強制的、暴力的、非人道的な思想改造を意味していた。しかし、今日、そうしたケースはゼロではないだろうが、少なくとも例外であろう。それにしては、“洗脳” という語があまりにも氾濫してはいないだろうか。何でもかんでも、このラベルを貼って安心してはいまいか。この氾濫、この増殖こそ “トロイの木馬”の正体であることは、前記事「“洗脳”という言葉の洗脳力」に詳述した。

 

“洗脳” は 役目を終えた

今日の思想改造や情報操作は、もはや強制的でも、非人道的でも、暴力的でもなく、むしろ、ほとんどステルス的で隠密(いんみつ)な方式になっている。いや、むしろ逆に、エロチックであったり、非常に心地の良い、誘惑的なかたちを取っている場合も多い。つまり、本来の意味での “洗脳”(戦後の日本での典型例はオウム真理教かもしれない)は、今日決して一般的なものではない。広義に使う包括語としては、もはや時代錯誤なのである。わずか60年余りで時代遅れになってしまったのは、情報操作の技術、心理学研究が飛躍的に進んだためである。もはや“苦痛”を与えなくても思考操作はいくらでも可能になってきたのである。

にもかかわらず、ジェネリックな表現として、つまり、この種の思考操作を代表する包括語として未だに使われているのはなぜか。

 

 “洗脳” は “ドロボー” に似ている

それは、たとえ情報操作がステルス的、遠隔的になって、もはや拷問的でも強制的でなくとも、その不当性と非倫理性を弾劾する必要から、暴力的、非人道的要素を持つ古典的“洗脳”と同じ扱いにされるのである。

たとえて言えば、知能犯の詐欺師をドロボー!と呼ぶようなものである。

たしかに詐欺師も広義にはドロボーの範疇に入るかもしれないが、ドロボーにもいろいろなタイプがありはしないか。窃盗、強盗、横領、収賄、公文書偽造・・・。なんでもかんでも “ドロボー” と “洗脳” で済ますのは、“脳” が無さすぎではなかろうか。

“洗脳”はあまりにも広範囲に使われ過ぎた。本来以上の仕事をしてきた。ご苦労さんである。そろそろ本来の強制的、密室的なケースだけに戻してあげた方がよさそうである。

 

 

 

多様化する情報操作、多様化するボキャブラリー

上記の代替表現すべてを “洗脳” と呼んですませているようなひともいるだろう。わたしもかつてはほとんどそうだった。それを“一つ覚え”と言う。すべてを赤い絵の具一色で描くひともいるであろうが、複数の色の絵具で描くひともいるだろう。

言うまでもなく、今日、情報操作は多様化している。それらを的確に突き止め、えぐり出すには、捉える側のボキャブラリーも多様化せざるを得ないであろう。

  

“染脳”

さて、「それでも、やっぱり “ドロボー” のようなジェネリックな包括語があってもいいんじゃないかな」、という声が聞こえてくる。同感である。そこでわたしが提案するのは、上記 2) の “染脳” である。

われわれが “洗脳” の呪縛から解かれるためにも、包括語としての“洗脳” と縁を切って、“染脳” に切り替える必要があるだろう。声に出したり、耳で聴いているかぎりでは同じである。これであれば、無理なく自然に移行できるであろう。

 

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