ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

“情報貧困層” と “情報富裕層”  2021.11.02 改訂

2015-03-30 23:23:04 | 思索の種

 2015/03/01 の記事を多少改定した。

“情報貧困層” と “情報富裕層” 

 

“貧困層”、 “富裕層” という表現をあえて使うのは、意図的な挑発である。単に、 情報の世界において “貧しい”、 “豊か” と言うのと同じである。情報貧困層 と 情報富裕層 という区別に気づいたのは2,3年前であるが、わたしの意味するところは、おそらく読者の予想とはまるで違うであろう。

 

インターネットが普及し、パソコン、スマホ、そしてタブレットがこれほどまでに出回って使われている今日、“情報富裕層” とは誰を指すのか? “情報貧困層” とは誰を指すのか? 

一昔前であれば、国会図書館に何日も足を運ばなければ得られなかった情報が、今日ではパソコン画面上でほんのわずかな時間でいくらでも得られるということが普通のことになってきた。

情報を得るためのコストは限りなく安くなり、それを得るための時間も限りなく短縮されてきている。こうした時代にあって、スタバの一角でコーヒーを飲みながら最先端のタブレットでひたすらネットサーフィンをしている人間が “情報富裕層” とは限らないというのがわたしの主張である。

これほどまでに “情報” が限りなくインフレ化してきた現在、情報量の多寡は “富裕” であるか “貧困” であるかの指標には、まるでならなくなってしまっている というのが私の説である。

 

 

情報の “富裕層” と “貧困層” を分ける区別

それでは、“富裕層” と“貧困層” を分ける区別はどこにあるかというと、所有する、もしくは検索できる情報の絶対量などではなく、当人オリジナルの情報の “発信量” なのである。

いくら最新モデルのタブレットで、最新の情報を検索し、閲覧し、ダウンロードしていても、 “受信” するだけ、“吸収” するだけという人間は多い。しかし、彼らはけっきょく、他人から情報をもらっているだけ、そしてそれを横流ししているだけなのだ。悪質なのは、ひとのオリジナルの情報を盗んで、自分のオリジナルであるかのように発信する “パクリ” である。

 

そうした、これといった 自分オリジナルの発信はしない人間は、しょせん “情報貧困層” に属する有象無象なのである。

もちろん誰でもさまざまな情報を受信をし、発信もするであろう。問題は比率である。 “発信/受信 比” において、発信の比率が高ければ高いほど “豊か” であり、発信の比率が低ければ低いほど “貧しい” ということである。

つまり、情報世界への貢献度が高いほど “豊か” なのである。反対に、ネットサーフィンしているだけ、見ているだけという、“受け身の情報生活” であるほど “貧しい” ということである

ひとのブログを見るだけではなく、コメント欄に自分の意見を書き込む人間の方が、ただ見ているだけの人間よりも “情報世界への貢献度” は高く、より豊かな情報生活を送っていると言える。

 

さまざまな “面白い”、“役に立つ”、“有益な” 情報にアクセスして自分の世界が広がり、自分が高まり、豊かになったと思い込んでいる人間は多い。スマホやタブレットやノートPCなどの情報端末の最新モデルを所有することがその錯覚をさらに助長させる。最近はタブレットおばさんを電車内でもよく見かける。

しかし、テレビを考えてみたまえ。ケーブルテレビでさまざまなチャンネルを一日中見ている人間が情報の世界で豊かな生活を送っていると言えるか?逆にそれだけ、“バカ” になり、 精神的に “貧困” になってはいないだろうか?

 

情報の世界を、モノの世界の延長であるかのように思ってしまうのが “貧困層” の発想の典型である。何でも、絶対量が多ければ多いほど “豊か” だと思ってしまうのだ。そして、その他人の情報を吸収したり、やり取りしているだけで豊かになったと錯覚する人間で溢れかえることになる。

情報の世界、精神的な世界、文化の世界で本当に “豊か” な人間は、“発信” するためにこそ “受信” するのだ。“表現” するために、自分の言いたいことを言うためにこそ “吸収” するのだ。“自分からの発信” のための材料を仕入れるためにこそ受信しているのだ。

 

これはなにもインターネットのサイバースペースのことだけではない。頻繁に美術展に足を運ぶだけの人間よりは、いくらヘタでも自分で絵を描き、個展やグループ展に出品する方がずっと “豊か” なのである。

ひとのマネや受け売りではないオリジナルの “メッセージ” をどれだけ “発信” しているかが問題なのである。

「そんなオリジナルなメッセージなんてありませんから」というひとがいるかもしれない。問題はそのメッセージがあなたから出てきたものかどうかなのだ。本当にあなたから出てきたものであれば、あなたが本当にそう思った意見であるならば、それがいくら他人のものと似通っていても、それはあなたのオリジナルの意見なのだ。たとえそれが凡庸な意見やメッセージであっても、一人の人間の発信としては意味がある。違うだろうか?

ある事件、ある情報についての記事を発信する場合、それに “自分の解釈” を加えることによって、“オリジナルな発信” となるのだ。

 

溢れかえる情報を毎日浴びるように “吸収しているだけの人間” はしょせん “情報貧困層” なのである。いくら賢くなった気になっていても、しょせん “受け身の情報生活” なのである。

たしかに今日、誰もが多くの情報を吸収しているだろう。しかし、毎日大量の情報を吸収するだけに終わらず、自分からも積極的に “発信” してこそ “能動的で豊かな情報生活” を送っていると言えよう。

 

 

 
 

 

 

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2 コメント

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情弱とは違いますね (H4)
2019-01-28 19:29:53
情弱 (情報弱者) とはまったく違う概念ですね。
「情弱」はほとんど「脳弱」の意味で単に侮蔑語として使われているように思います。
この記事での「情報貧困層」はまったく違いますが、面白い切り口で、説得力があります。受信しているだけに終わらず、発信することの大切さを主張されているのは大いに共感できます。だからこそわたしもこうしてコメントを書き込みました。これだって発信ですよね。
H4 さま (ザウルス)
2019-01-28 19:53:11
コメント欄は立派な表現の場です。読者の側からの重要なフィードバックの場です。或るブログの1つの記事本体よりも、その記事についての1つのコメントの方が印象に残ったということもあります。
あるトピックについて、「自分もひとこと言いたい」 と思うのは実に自然なことだと思います。いろいろなコメントがあってこそそのトピックも活性化すると思います。その意味でもコメントは大歓迎です。ありがとうございます。

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