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ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

朝日 sippo (2) 「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?

2018-07-30 14:37:06 | 動物

朝日 sippo (2)  「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?


 当ブログの記事 sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み は、一部の人たちには非常に気になる、うろたえさせる記事であったようだ。これはある程度予想されたことではあった。

その記事の主張は以下の通りである。

1) 朝日新聞社は 「シッポ」 というペットオーナー向けのウェブサイトを開設している。

2) 「シッポ」 では犬や猫といった 「ペットの殺処分反対」 の記事も掲載している。

3) 尻尾(シッポ) は犬や猫だけでなく、鳥、魚、サソリ、クジラなど自然界のほとんどの動物についている。

4) 朝日の 「シッポ」 に、尻尾を持っている牛や豚の 「殺処分反対」 の記事が一切無いのはなぜか?

  

コメント欄をみると、読者の “動揺ぶり” “困惑ぶり” がうかがえる。

  • 「えっ!? 殺生がそんなに悪いことなの?・・・生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 2018-07-03 23:02:40
  • 「自分も動物界の一員だと思えば気ままに殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。」 2018-07-03 01:04:13
  • 「殺生ははたして悪いことでしょうか?みなさんどうお考えでしょうか?」 2018-07-21 20:29:43
  • 「殺生をしないで生きていける生物は存在しません。殺生は生命の根源です。」 2018-07-29 21:28:20

そもそも当のブログ記事で一度も使われていない 「殺生」 という言葉を持ち出して勝手に問題視しているのだ。 「殺生は悪いことか?」 とか 「生きることは殺生だろ」 とか 「殺生は生命の根源です。」 という、いきなり 抽象的な 「殺生論」 へのすり替え が後を絶たないのだ。当のザウルスの記事では、「殺生はいけない」 とか 「生きものを殺すのはよくない」 とかいったことはどこにも言っていないにもかかわらずである。


「殺生をしないで生きていける生物は存在しません。殺生は生命の根源です。」 だから 「殺生は避けられない」、 だから 「豚や牛を殺して食べるのも仕方がない」 と言いたいのだろう。その理屈で “肉食生活” に明け暮れる自分を矛盾なく自己正当化できたつもりなのである。どうやら何とかして “うしろめたさ” を払しょくしようと必死なようだ。

こうやって繰り返しこの殺生論を持ち出す人たちは、どうやらこの“すり替え” つまり、 “まやかし” によってしか “心の安らぎ” を得ることができない様子なのである。

“まやかし”? そうである。それを以下に明らかにしていく。

 

「“生きること” は “殺生をすること” だ」  だから 「“殺生すること” なしには生きていけない」 というこの論理を、「殺生不可避論」 と呼ばせて頂く。「生きるためには、他の生きものを殺すことはどうしても避けられない」 という、一見説得力のありそうな理屈ではないか。

しかし、この「殺生不可避論」 に多くの人がこれほどまでにしがみつくのは、この一見非常にわかりやすい論が、実は とんでもない “諸刃の刃(やいば)” であることにまったく気づいていないからなのだ。

冷静に考えてみていただきたい。この 「殺生不可避論」 は 「人殺しもやむを得ない」 という主張に何の矛盾もなくそのままつながるのだ。言うまでもなく、殺生は “生きもの” についての話であり、人間は “生きもの” の一種である。 違うだろうか?

 

「自分も動物界の一員だと思えば 気ままに 殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。」 というこの 「殺生不可避論」 からすると「“気ままに”人を殺したければ殺したってかまわない」 ということになる。たしかにこれは “論” としては 一貫性がある。強盗殺人犯は 「生きていくためにはどうしても人を殺して金銭を奪う必要があった」 と主張するかもしれない。

また、無差別殺人事件の、引きこもりの犯人は、「誰でもいいから殺したかった」 と言うかもしれない。これも立派な 「殺生不可避論」 ではないだろうか? 

「殺生は生命の根源」 という説は、ほとんど 「殺人賛美」 である。実際、「殺生不可避論」 からすると、どんな殺人も正当化、いや美化すらできるだろう。何しろ “生きること” は “殺すこと” だと主張しているのである。'TO LIVE is TO KILL.' である。

そればかりではない。「殺生不可避論」 というこの “一般論” からすると、今度は 「自分が殺されても仕方がない」 ということも何の矛盾もなく論理的に導き出されてしまう。当然だろう。

「生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 などと、いい気になって “一般論” を振り回していると、それがブーメランとして飛んできて自分の眉間に炸裂するのだ。

いや、自分のみならず、自分の家族や自分の友人が殺されても文句も泣きごとも言えないことになるだろう。

それどころか、「それこそ生命の必然だ!」 として、もろ手を挙げて歓迎しなくてはならないのではなかろうか。なぜならば「殺生不可避論」 者 はみずから 「すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 と主張しているからだ。彼らにとって、“殺すこと” はまさに “生命を謳歌すること” にほかならない。 

 

しかし、「殺生不可避論」 を担ぎ出す連中は、実はその 「殺生不可避論」 から都合よく “自分” だけをちゃっかり除外しているのだ。殺生の対象から自分だけを黙って免除している 実に利己的なズルい論理なのである。違うだろうか?弱肉強食の修羅場から自分だけをこっそり安全圏に隠し込んでいるのだ。「他人や他の生きものは殺してもいいけれど、このわたしを殺すのはダメだよ」 という 何ともムシのいい理屈 なのだ。

これは “トリック” であり、“いかさま” であり、“欺瞞” である。

それとも 「殺生は必然の事です。だから、わたしやわたしの家族が殺されても全然かまいません。」 と本気で言う覚悟があるのだろうか?

たとえそう言ったとしても、そんなことを言う人間をあなたは信用できるだろうか?こいつは口先だけの人間だと普通の人は思うにちがいない。

けっきょく、“一般論” に見せかけながら、実は自分だけを “例外” にしている騙しのテクニックなのだ。ここに 「殺生不可避論」者 の“ウソ” がある。無脳層や他脳層の人間は、自分でも気づかずにこの “自己欺瞞” にどっぷり浸かっているのである。

そもそも仏教における 「不殺生戒」 とは、全ての生き物、生きとし生けるものの命を奪ってはならない、ということである。そして当然 “人間” であるあなたという存在は、殺してはならないものの筆頭ではなかろうか。

「殺生不可避論」 を振りかざすひとたちは、自分だけを特別扱いする、実に利己的なトリックを当たり前のように使っているのだ。さも一貫性のありそうな “一般論”、 つまり誰にでも当てはまるはずの論を振りまわしているように見せながら、その実、全然一貫性のない利己的な “まやかし” で自己正当化しているだけの、実にアンフェアな輩(やから) なのである。

 

仏教的な装いをした 「殺生不可避論のトリック」 は、実は非常にキリスト教的 である。

聖書においては、動物の肉は神様が人間を養うために食物として与えたものであって、動物は遠慮なく殺して食べていいのだ。聖書の教えは、人間とその他の動物との間の決定的な違いの上に成り立っているのであって、十戒の中の 「汝、殺す無かれ」 という戒めも、その対象はもっぱら人間のことなのだ。隣人」 とは人間のことだ。人間を自然界、宇宙における特権的な存在と見ているのだ。人間にとっての他者である動物は、人間のためにいくら犠牲にしてかまわないのだ。

 

しかし、本来の仏教の 「不殺生戒」 は生きものすべてが対象である。生きものの世界に上下関係を見ないのである。みな同等であり、平等なのだ。

「『あらゆる一切衆生の類(たぐい)、もしは卵生(らんしよう)、もしは胎生、もしは湿生(しつしよう)、もしは化生(けしよう)、もしは有色(うしき)、もしは無色、もしは有想(うそう)、もしは無想、もしは非有想(ひうそう)、もしは非無想なるもの、われ、皆、無余涅槃に入れて、これを滅度(めつど)せしむ。」(「般若心経・金剛般若経」)

「すべての生命がひとしく救済されるべき」 という発想が本来の仏教なのだ。

 

 しかし、日本に渡った仏教はあまりにも変わり果ててしまっている。

日本以外のアジア諸国の仏教はもちろん、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、ヒンズー教であれ、イスラム教であれ、聖職者と名のつく人たちは一般人とは違う 何らかの禁欲的な生活 をしているものだ。

しかし、日本ではほとんど何でもOKである。妻帯、肉食、飲酒、喫煙、ギャンブル、風俗・・・何でもありである。今日の日本の僧侶は、一般人と同じ資本主義的快楽主義の “俗” の世界にそのままどっぷり浸かって生きているようだ。

 そのくせ法衣を着て、“上から目線” で説教を垂れるので、一般大衆は 「生臭坊主がエラそうなこと言っちゃって・・・」 と腹の底で笑っているのだ。

宗教的理由で肉食や飲酒をしない仏教僧は今日の日本にはほとんどいないであろう。実際、そういう奇特な僧侶は同業者たちから 「ええカッコすんな!」 とイジメられるそうだ。日本の仏教があまりにも堕落して腐りきっていたからこそ、仏教原理主義を標榜したあのオウム真理教が台頭してきたのではないか。しかし、日本の既成仏教宗派には “オウム” 後 も何の反省もないようだ。

 

日本の仏教のメジャーな宗派のほとんどは仏教の本来の教えを忘れ、葬祭サービス業 になり下がっている。どこのお寺も 世襲制のファミリービジネス である。宗教施設が ファミリービジネスの事業所 になっているのは日本だけでであろう。

一般大衆は 「坊さんは葬式だけちゃんとやってくれればいい」 と割り切って、それ以上は特に期待していない。なので、坊さんの肉食や飲酒に目くじら立てるひともいない。それをいいことに、日本では “俗” 物の聖職者 が津々浦々にはびこり、のさばることになる。

 

そうした生臭坊主の一人が、法事のあとの会食中にこう説教していたことを思い出す。「生きものは牛や豚だけではない。どんな食べ物もみな生きものだ。お米も野菜も生きものだ。それらを食べるということはみな殺生だ。水だって、放っておけば腐る。腐るということは生きているということだ。つまり水を飲むことも殺生なんだ。要するに食べたり飲んだりすることはみな殺生なんだ。そもそも、生きるということじたいが殺生なんだ。」 実にすっきりしたわかりやすい話に聞こえるではないか。

 

しかし、これは 「殺生不可避論のトリック」 そのものである。自然界において人間だけを特権的に扱うキリスト教的な、利己的で差別的な論理なのである。このトリックによってその住職は自分も含めた会食中の出席者全員の “肉食生活”、 “欧米化したモラル” を丸ごと正当化し、安心させていたのである。

「生きものを殺してはいけない」 という仏教本来の教えを守ることは簡単なことではない。しかし、簡単ではないことだからこそ意味があるはずだ。誰にでもできることを “教え” にしてどんな意味があるのか?

日本では仏教本来の教えもおそらく 「どうせ無理なことなんだから守ることはない」 と、日本的に “合理化” されてしまったのではなかろうか。さらに戦後になって、アメリカ式の肉食生活 が本格的に移入されると、臆面もなく 「殺生不可避論」 で開き直ることになったに違いない。

「殺生不可避論」 を振りかざすひとたちは、自分だけを特別扱いする、実に利己的でアンフェアなトリックを当たり前のように使っているのだ。

さも一貫性のありそうな 「殺生不可避論」 を振りまわしながら、その実、全然一貫性のない利己的な “まやかし” で自己正当化している、実に狡猾な輩(やから) なのである。

「食べること自体が “殺生” じゃないか」 「生きること自体が “殺生” なんだ」 などとわけ知り顔で言う人間は、みなこの類(たぐい) である。 

 

「牛や豚の肉も “感謝の気持ち” をもってありがたく頂けばいいのだ」 ということもときどき耳にする。現に、上述の住職もそれで説教を締めくくった。実際、世間のふつうのひとたち(無脳層)はこの 「感謝免罪論」 に簡単に納得してしまうのである。

“感謝すること” によって “免罪” されるのならば、

● コンビニ強盗は  「どうもありがとー!」 と店員に言い捨てて逃げればいいことになる。 

● 婦女暴行魔は立ち去るときにベルトを締めながら 「ありがとう、サイコーだったよ。」 と言えばいいことになる。

● さらには、一家惨殺強盗事件の犯人ですら、逃げる前にテーブルに 「ありがとうございました。頂いたお金は大事に使わせて頂きます。皆さん、どうぞ安らかにお眠りください。」 と丁寧に一筆書き残していけばいいことになる。

こうした連中の感謝は本心であるわけがない、と言う人がいるかもしれない。わたしはそうは思わない。“頂いたこと” に対して非常に満足し、本当に “心から感謝する” ケースはゆうに考えられる。しかし、かりに “心からの感謝” だったとして、それが何だと言うのだ?そもそも “感謝” とはその程度のものなのだ。

“感謝” を勝手に “神聖視”、“美化” して、“感謝の気持ち” という “一方的な善意” を表すことによって相手側の被害、損失を埋め合わせることができるかのように思う “身勝手さ” に気づくべきであろう。

命を奪われた相手に対する “感謝の気持ち” の表現などは、要するに “殺害を正当化するためのただの偽善” ではなかろうか?せめて正当化した気分になるためのポーズであろう。ということは、けっきょく正当化しづらい面があることを暗に認めているということだ。

ステーキやトンカツを食べ終わって、「牛さん、豚さん、ありがとう!」 と言うのは、上に挙げた3つの例の中では最後の 一家惨殺強盗事件 がいちばん近いケースであろう。

利益や満足を得るために相手の生命を一方的に奪っていると言える。

 ステーキやトンカツの場合は通例受益者が直接に手を下すのではなく、間接的に第三者に報酬を払っての 殺害の依頼 というかたちをとっていると考えることができる。自分で牛や豚を殺す代わりに専門業者に を代行 させているとも言える。

 対価を払って食べるいじょう、自分が食べる牛や豚の殺害には責任があることになる。対価にはとうぜん “” や “解体” の費用が含まれている。

 

原始仏典には次のような言葉がある。

「すべての生きものは暴力を恐れる。すべての生きものは死に脅える。わが身に引き比べて、殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならない」  ダンマパタ

「彼らも私と同様であり、私も彼らと同様である、と思って、わが身に引き比べて、殺してはならない。また他人をして殺させてはならない」  スッタニパータ

 

 sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み

 

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67 コメント

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肉と言う文字は (ナオ)
2018-08-01 22:35:26
誰かが言ってましたが家の中で人が人を食べていると。見えなくもない(笑)
前回のシッポの記事内容は、朝日新聞が動物愛護活動の一環で犬や猫の里親探し等するみたいだけど、シッポとネーム打ったからにはシッポのある生き物全てにおいて愛護活動したらいいのにね!って事でした。ざっくりな内容は。で、コメントにはいつの間にか殺生に話しが飛んで。。論点ずれまくり。しかしこの考えが大半。ベジタリアンと言うだけで偏見される。宗教上の理由?とか言われる(笑)あと。どこかで読みましたが実はキリスト教も肉食は禁止らしいです。長い間に歪んで伝わっているのでしょう。肉、魚(貝類はわからないけど)は実はダメと書いてありました。ホント、殺生を許すと言う意味を考えて頂きたいものです。坊さん等も!仏教の教えに輪廻転生ってあるでしょうが!アレの意味知っているなら殺生出来ないはずなんだが。。
ナオ さま (ザウルス)
2018-08-01 23:21:57
肉食の是非についてはキリスト教徒の間でも論議されているようですね。それは近年、欧米において菜食主義、ビーガニズムが大きな広がりを見せているためでしょう。

健康のため、生命倫理のため、エコロジーのため、から肉食が疑問視され、批判されているのだと思います。

しかし、「ザウルスでござる」 では、肉食家たち自身の価値観の論理と倫理における “矛盾” 、“不整合” を問題にしています。「殺生はいけない」 とは一言も言っていないのです。
一言も! (ナオ)
2018-08-02 00:32:43
ザウルス氏の記事には出てませんよね。なのに、出てきてしまう。これ、不思議です。普段でもその手の話しになると出るんですよ。相手から。まさにこの記事は、その解答編なんですね。ただ分かるんですよね。相手は食べたいから言うんだなってのが。でもその意味をザウルス氏と似たような事言ったことがあって。
そしたら屁理屈と言われた(笑)自分からしたら言動に一貫性がないなあ〜と(笑)
おっしゃる通りです (ザウルス)
2018-08-02 07:35:38
この記事は、多くのひとたちが自分の毎日の “肉食生活” を、「生きるためには殺生はやむを得ない」 という 「殺生不可避論」 によって “正当化” していることを明らかにしました。そしてその「殺生不可避論」 が実は “欺瞞に満ちたトリック” であることを証明しました。

自分たちの拠り所としている 「殺生不可避論」 がまるで仏教に基づいているかのように錯覚しているのが滑稽です。単に “堕落した生臭坊主の言い訳” の受け売りなのです。
この “生臭坊主の言い訳” はどうやら 「開き直りの破戒僧」 として悪名高い親鸞に端を発するように思われます。
前回のsippo記事と合わせて読ませていただきました (ぱんだ)
2018-08-02 10:16:08
初めまして。コメントは初めてですが少し前から読ませて頂いております。

私が住んでる所から車で数十分ほど行ったところに、場だと噂される(もしかしたら私がそう思いたくないから確認してないだけかも知れませんが)場所があります。
そこを通るたびに、こちらの記事にある画像のような世界が頭をよぎり、考えるのをやめてしまいます。

それでもお肉が好きな私。嫌なことには目を向けず、ただ好きなものを食べる私。
いつも「仕方ない」と心の中で言いわけしつつ…。

幼い頃、近所にあったお肉屋さんで奥の冷凍室に冷凍された処理済みの牛が丸々一頭、逆さまに吊るされているのが見えて驚いた記憶もあります。

私はあの生き物の一部を食べているんだと思ったこともあります。それなのに食べる時はそれを忘れる、考えないようにしている。

私はエゴの塊なのだなぁ、と改めて感じました。

それでもまた私は同じことを繰り返すのかも知れません。

ザウルス様の論旨とズレたコメントでしたらすみません。
拙いながら、私の感想をこちらに残したくなりました。
ぱんだ さま (ザウルス)
2018-08-02 12:24:54
率直なご感想をありがとうございます。

わたしが今回の2つの記事でしていることは、肉食の “断罪” や “非難” ではありません。

肉食の正当化にひそむ矛盾や不整合を明らかにして、“問題提起” をすることです。
毎日のあまりにも日常的なことに大きな問題がひそんでいることに気づいて頂けたらうれしいです。
私にとっては原罪に近いかな? (夏っこ)
2018-08-02 13:25:21
お久しぶりです。私も愛犬を愛でながらお肉を頂いている身であります。
ペットだけでなく牧場の動物たちも本当に可愛いと思いながら同時に「あー…この子たちはいずれ私たち消費者のために殺されてしまうんだ…」と意識せざるを得ず、見ているのが辛くなってしまいます。スーパーに並んだお肉を見てなお、「これは場に入って行かねばならなかった動物たちの肉なんだ」と苦しくなりながら買っては食べているのです。正当化はできません。ベジタリアンにもなれません。申し訳なく思いながら頂くのみです。
しかし人類は現存する宗教がまだなかった太古の時代から狩りや釣りをして生き物の命を奪って生き延びてきました。私たち日本人は魚介類や鹿猪を取って食べる事にはあまり抵抗や後ろめたさは感じないのではないでしょうか?それは私たちが生きていくために是非もなく命を頂く身近な対象であったためだと思います。現代は必要以上に動物を産ませ、殺し、使いきれずに廃棄している上、他方では食糧がなく飢えている人が何億人もいるのです。ペットでさえ必要以上に産ませ、買い手がつかないうちに成長してしまったら闇に葬り…(これがsippoにとっての本題でしたね)
結局人間が分をわきまえず、他者の命をカネに変えることに血道を上げた結果という観点で、ペットの命も家畜動物の命も軽んじていることに変わりはないと思います。さらに言えば、人身売買や臓器売買、デザイナーズベビーなど人間の命も手っ取り早くカネに変えられています。

朝日新聞も肝を据えて、センシティブなテーマに発展しても受けて立つ覚悟で始めてくれたら良かったのに…ですね。
タイの野良犬、インドの野良牛 (コメット)
2018-08-02 14:22:27
タイの話ばかりして恐縮ですが、今回の話題はタイにピッタリかも知れません。タイの町は野良犬だらけです。(飼い犬が放し飼いにされている場合もあります。)一度ご近所のインドへ行った事がありますが、ナ、ナント野良「牛」が町中を歩いていました。慣れない私は若干怖かったのですが、向こうは人間に慣れているようで、威嚇して来たりしません。ようするに鳥や爬虫類と同じ扱いなのです。慣れれば違和感はありません。インドのジャイナ教は虫を踏まないように気をつけて歩き、誤って蚊を飲み込まないようにマスクをして生活するそうです。一般人はそこまで徹底していないようですが、動物に対する配慮は日本や欧米に勝っているように感じました。ただ、野良犬や野良牛の糞の始末は問題ですが、、、、
Unknown (学生)
2018-08-02 15:01:32
たしかに今は動物性蛋白質を植物からでも得られるようになって来ていますが、未だにそれが普及していません。(GM作物の安全性はまだ分かっていません)またこの地球には菜食主義者もいますが彼らの寿命は平均と比べて低くなっています。(このデータが間違えている場合は以後の論は意味を成さない)つまり、人間が長寿を目指すならば動物性蛋白質をとらざるを得ず、それは多くの場合動物からしかえられない為に動物をころします。このとき何故人間は互いに殺し合って動物性蛋白質をとろうとしないかですが、それに完全に合理的な答えは見付からないので文化だとして割り切るべきだと思います。確かに動物愛護団体がすべての動物を愛護していないことは気色悪いですが、それに属していない一般人は健康を保ちたいのであれば肉食は避けられないと思います。
夏っ子 さま (ザウルス)
2018-08-02 15:14:47
最初の記事の 「sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み」 において、わたしは以下のように言っています。
「まずは、犬や猫を飼っている人たちから、“肉食生活” を見直す必要があるのかもしれない。」 と。

牛豚は犬猫と同じ四つ足動物で、人間と同じ哺乳類です。哺乳類ということは魚類や爬虫類などと違って母親が子供を “愛情” を持って育てます。牛豚は人間がペットとして飼っている犬猫よりも明らかに大きいですし、実際、人間よりもずっと大きいです。

犬猫を殺させてその肉を食べることなど考えられないようなひとが同じことを牛豚には平気でしているのは、そういう社会的慣習が産業化して大衆がそれを疑わずに受け入れているからです。
奴隷を使うという社会的慣習も疑われることなく長く続きました。女性の権利を認めず家畜扱いする社会的慣習も長く続きました。タバコを吸うという社会的慣習は500年くらい続きましたが、現在やっと消えつつあります。しかし、どんなおかしな時代にも、それらのおぞましさに気づいているひとはいるのです。

犬猫を飼っている人は、同じ四つ足の哺乳類を飼っているというだけで、肉食のおぞましさに気づきやすいはずです。少なくとも自分の知性と感性で物事を考えることができるひとならば、いくら周りの人が当たり前と思っていても、「おかしい」 と気づくはずです。

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