わが家の庭で偶然に、ほうき草の紅葉と鶏頭の赤が鮮やかに目に映る組み合わせになっています。
バラをたくさん栽培している方から、数種の大輪のバラの花をいただいて、あまりの立派で綺麗さに感激して、さし芽をしてみた。寒い時期だったので小さな鉢は居間に置いた。やがて芽を出した。植え替え、今、親より小さいけれど花を咲かせた。
花屋さんで見かけたり産直などでたくさん売られている黄色の変なもの。「なあ~に?これ!」と言う人もいるが、生け花などの花材としても使われる角茄子(ツノナス)。狐の顔に似ているから『フォックスフェイス』。
いつも秋に咲いてくれるものだと特に手をかけないでいるのに、その時になると花を沢山見せてくれる。当時近所にいた友人からもらった「ほととぎす」。二十数年位はわが庭で生きている花である。
さつまいもと言えば秋。だったのは昔。今は年中売っているので季節感はなくなった。種類もいろいろ、高価なものもあるようです。毎年、作っている方に頂く『安納(あんのう)いも』は、とても美味しいものです。
猛暑の日々も遠ざかり、秋晴れを待って夏物の始末や、春に咲く花の球根を植えたり外回りの片付けなど、何でもない日常のことができた。このような一日も私には気分転換でストレス解消になります。
二日続いた雨が上がり青空が見える。庭に茗荷の花が咲いていた。「わたし、ここに咲いています」よく見ないと見落としそうな、可憐で淡いクリーム色の花が土の中から顔を出している。食用には花の咲かない内がいいのですが、可愛くて小さな弱い花がその時を懸命に咲いているのを見つけるのも楽しみです。
この時期、道路の両端などにススキが穂を垂れたのをよく見かける。それから作ったフクロウをいただいた。ボランティアで役にも立っていないのに、お礼の気持ちだという年配の男性から。一つ一つ作るのはさぞ大変な手間だっただろう。その方のお人柄が垣間見えたようでした。
長い間使っていた嫁入り道具のミシンを6年前に買い替えた。そのミシンの持ち手がリコールされたということで、直してもらった。近頃はミシンを買っても使わない人が多いらしい。車とは違って、別に命には関係ないから直さなくてもいいと言う人が居るのだと、ミシン屋さんは、苦笑していた。
今秋は次々と例年より紫色も濃く大きな花を咲かせています。蕾が風船のように大きく膨らんで今にもはじけそうで、ひょっとしてポンと音がして花開くのでは?とその瞬間を見てみたいものだと、子どものような気持ちになっているのも可笑しいものです。
今、わが家に鉢植えで『ミセバヤ』という花が咲いています。私は百人一首を小学生の低学年の頃から父母の影響で、意味もわからずに諳んじてカルタをしていたのですが、その中に同じ『みせばやな~…』があるので、ずっと気になっていました。調べてみると「みせばやな」の「ばや」は願望の助動詞で(見せたいものだ)「な」は詠嘆の終助詞のようです。これで歌の意味がおくればせながら理解できました。
わが家では、野菜くずを時折、庭に埋める。夏の終わりに、その中の何かが芽を出した。それがどんどん成長して、今や六メートルにも達してまだ伸びようと蔓をあちこちに巻きつけながら成長し続けている。黄色の花は咲いても雄花ばかり。時折、雌花が出来るが、受粉してもすぐに落下。今度はうまく出来そうだが、時すでに遅しかも。冬瓜らしい。
今、小さなレースの傘のように見えるニラの花が咲いている。農家の畑の端に植えてあるのが、つんと伸びた茎に白い花をいっせいに咲かせ、それが畑をぐるりと白い線のように縁取りしてきれいな景色になっている。考えて植えてあるのだなと感心する。
先日、お向かいの奥さんと永遠のお別れをした。とても仲良く優しくしてもらっていたので、色々と思い出されて、ただ「ありがとうね!」と感謝でした。ずっと私の中で生き続ける人の中の一人のような気がします。