〈特高憲兵の任務(1938年10月)〉
翌日から勤務の合間を見ては、森永融伍長らの指導を受けて特高班員としての見習いをはじめることになった。諜報工作などの特務戦にたずさわるためには、きれいごとではすまされないことが多いらしく、特高班勤務の下士官のなかにはかなり自堕落に見える行動をとっている者がいた。ひとりで二、三人もの女をもっている者もあった。
上海へ来て日も浅く、こうした憲兵の姿を見なれない私には、はじめのあいだ奇異に感じたものだったが、やがてこれは情報を収集する手段であることを知った。女たちは外見は情婦のように見え、彼女たち自身はそう信じこんでいるふしもあったが、じつは諜報活動の拠点ともいえる役割を果たしているのであった。彼女たちの一部は、憲兵個人のもつスパイだったのである。そのなかには日本人ばかりではなく、中国人をはじめ白系露人(旧皇帝派のロシア人)や欧米各国の国籍を持つ者もいた。また、その職業も雑多で、OL、人妻、淫売婦など多種多様であった。
もちろんこうした諜報工作にあたっている者は、女ばかりであるはずはない。むしろ男たちが中心であり、その諜報網は、会社幹部から中国側警察官、苦力(クリー)、浮浪者などにわたり、多士済々なのだが、巧妙にはられたこの網は簡単に見破られるものではなかった。外見は、かたくるしく権力のかたまりのように見える憲兵隊ではあったが、内情はこうした諜報工作にあたっている者が戦地憲兵の中心で、また情報収集こそ戦地憲兵隊の最大の任務でもあった。
このころ、上海工部局の幹部だといわれる指宿(いぶすき)という五十近い日本人がしばしば憲兵隊をたずねてきたが、おそらくは彼も情報の交換を目的としての出入りだったと思われる。のほか市内には作家鹿地亘(のちに重慶に移って対日謀略工作にたずさわった)や元映画俳優の鈴木伝明などが潜入しているといううわさも流れていた。指宿のように定職についているものは別として、その他の大陸浪人といわれる人たちは、そのほとんどが陸海軍参謀本部や現地の軍司令部情報部になんらかのつながりをもっていた。
さらに南京陥落とともに重慶へ移動していた蒋介石の政府からも、CC団という特殊謀略集団が潜入しており、フランス租界を根城に日本人が多く出入りしている共同租界に出没し、日本軍将兵や憲兵のみならず、一般在留邦人に対して、無差別な暗殺工作を行なっていた。
彼らは秘密の地下室に濃硫酸をみたしたタンクをもち、拉致した日本人をこれに投げこんで完全に犯行の痕跡を消してしまうといわれていた。しかし現実はもっと大胆なもので、拳銃をもって日本人をつけねらうほか、白昼堂々とビルの窓から、下を通る日本人めがけて爆弾を投げつけるなど、目にあまる工作をしていた。これが路地裏ならともかくも、南京路のような繁華街で行なうのだから、当の日本人だけでなく、付近を歩いている無関係な市民までがまきぞえをくって殺傷された。(113-114頁)
〈上海へ集まった難民たち(1938年10月)〉
前述したように、当時の上海は、家を焼かれ肉親を殺され、戦火に追われて先祖伝来の土地を捨ててさまよう中国難民たちが、ウンカのごとくおしよせていた。このためいかがわしい遊び場が町のいたるところにあふれ、前線帰りの兵隊たちの絶好の息ぬきの場となり、在留邦人や一部中国人からの金儲けの舞台ともなっていた。
ところでこの難民たちの生活であるが、それはもう常識では考えられぬほど悲惨なものであった。"上海へ行けば何とかなる″″上海は欧米各国の権カ下にあるから、日本軍の暴力からのがれられるだろう"と安易に考えて流れこんできたものと思われるが、事実は彼らの希望とはまったく逆であった。
このころ、周辺の農山村では日本軍の徴発がはげしく、これに加えて日本軍対新四軍(中国共産車)の交戦区域はいよいよ拡大しつつあったため、上海への農産物の流通は困難をきわめていた。
上海の人口増加にともなって日常必需品はその需要のバランスをくずし、物価は日を追って暴騰の一途をたどっていた。もともと中国軍の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)によってひどく疲弊(ひへい)していた農民たちだから、戦火をさけて逃げるにあたっても、これといった金目の物は特たず、着のみ着のままの人びとがほとんどであった。
こうした状態の難民たちなので、売りぐいのタケノコ生活もそう長くつづくわけもなく、最後にのこされた生活手段は肉体を売るほかになかった。とはいっても、これは若い女たちだけにできることで、年寄り子供はもちろんのこと、若者といっても農民たちでは特殊技能もなく、上海がいかに大都会だからといって、そうやすやすと職が見つかるわけはなかった。
中国人から搾取(さくしゅ)することだけに明け暮れている欧米列国はもちろん、難民を作った当面の責任者であるはずの日本軍や日中両国政府にも難民対策などということはまったく眼中にないため、彼らに対する救援の手は何ひとつ差しのべられなかった。
こうした絶望の日々を送る難民たちは、住む家もないので横町の路地に直接ごろ寝をしていたが、その数は数万、いや数十万をかぞえていた。夏のあいださえ餓死者が絶えた日はなかったが、冬が近づくにしたがって飢えと寒さでその数を増していた。
難民の数は蘇州河を渡った共同租界(イギリス)内が圧倒的に多かったが、日本租界である虹口地区の一部も例外ではなかった。十月末のことだった。海寧路を巡察中の私はリッツという映画館の向かい側の道ばたに、汚れたボロ布に包まれた異様なものを発見した。いったい何かと思いながらその包みを開いた私は、一瞬とびあがるほどに驚いた。なんと包みの中味は全身が紫色のしっしんにおおわれた十歳ぐらいの男の子の死体であった。おそらく天然疸におかされたのであろう。
天然痘の蔓延(まんえん)を恐れた私は、さっそくこのことを分隊長に報告した。憲兵隊にはこのような死体を処理する係はいないので、分隊ではこの事実を共同租界の道路交通管理をけじめ、領事館警察などの役目をはたしていた英国系の上海工部局へ通報し、死体の処理を依願した。当時、飢えた難民たちはつぎつぎと道ばたで餓死していたが、肉親の遺体をほうむる金もない彼らは死体を野ざらしにしていたのである。工部局のトラックが毎日早朝に市内をまわって歩き、これらの死体を処理していたのだが、それは単に死体をかき集めて蘇州河上流にすててくるだけであった。(114-115頁)