〈解説〉
関東軍は、満州事変を契機とし満州を武力により領有しようとしたが、世界の目が満州に注がれていたため安易に行動が出来なくなった。
そのため、他で大きな事件を起こし、世界の目がそちらに向いている間に満州を領有と考える。そこで引き起こされたのが上海事変(第一次)である。
これは上海事変の張本人である田中隆吉の告白である。
(管理人注-司会は三国一朗)
- 田中さん、世間ではこの上海事変の火付け役は、実は田中さんであると…。
田中 その通りです。
- ズバリ一言でおっしゃいましたね。そうしますと、日蓮宗の托鉢僧が五人托鉢をやっておりましたね。あの時、上海の路上であの人たちを襲撃させたのは田中さんですか。
田中 そうです。私です。
- それは、どういういきさつですか。
田中 それは…前の年の九月一八日に満州事変が起こりました。一一月半ばにほぼ平定した。日本人としては満州を独立させたいんです。ところが列国側が非常にうるさい。そこで、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐から私に電報が来まして、「列国の目がうるさいから、上海で事を起こせ」と。列国の目を上海にそらせて満州の独立を容易ならしめよ、という電報が来たんです。それで、金を二万円送ってきた。
- 運動費ですね。たいきんですねえ。
田中 今の金にすれば六〇〇万円です。それで私は何とかして事を起こそうと-。実は私も満州事変に関係した一人ですから、是非成功させたいと思いました。当時、親しくしていました川島芳子さんという女の人がいました。
- 例の男装の麗人…。
田中 ええ、これに二万円渡しましてね。上海に三友実業公司というタオルの製造会社があったんですが、これが非常に共産主義で排日なんです。排日の根拠地なんです。「それをうまく利用して日蓮宗の托鉢僧を殺せ」ということを頼んだんです。それが、果たしてやったです。
- やりましたか。
田中 一人殺されて、ふたりは傷ついたんです。そこで私は、この時こそ事を起こそうと思って、当時、上海に日本人青年同志会というのがあったんですが、それをちょうど上海に来ておった重藤千春という憲兵大尉に指揮させて、その抗日色の強い三友実業公司を襲撃させたんです。そうすれば、必ずや日支間に衝突が起こると、私はそう確信したんです。果たして、その後の日支間の空気は非常に険悪になった。そこで当時の上海の松井倉松総領事が支那側に抗議したんです。こういう排日運動をやめろと。すると、中国側は、全面的に承知したんです。ところが、日本の居留民が承知しないんです。非常に激昂したんです。で、上海陸戦隊に頼んだんですな。何とかして支那人の排日運動を止めてくれと。ところが、だんだん険悪になりまして、一月二八日の暁に陸戦隊と一九路軍が衝突したんです。
- その時には一九路軍は前面に出ていたんですか。
田中 ええ、もう出てたんです。もう待っておったです、反撃を。
- すると、もう向こうの方も準備ができていたんですか。
田中 すっかりできている。塹壕を作って。陸戦隊が出動すると、すぐ反撃してくる。それで上海事変が起こったんです。
- そうすると、言われている通り、上海事変の火付役は間違いなく田中さんだったと…。
田中 その通りです。
- 何か他に方法はありませんでしたか。
田中 いや、ありませんな、それ以外に方法はない。
- じゃ、何とかして日支間に争いをまき起こして列国の注意をそっちへ向けておいて、その陰で満州国を独立させてしまおうという…。
田中 その通りです。
- それが結局は成功したというわけで…。
田中 そうです。そうして三月一日にですな、満州国は建国できた。あとで関東軍の板垣大佐から非常に丁重な礼状が来ました。
- よくやったというわけですか。
田中 お陰で満州は独立できたと、私はほめられたんです。(出典:東京12チャンネル『証言 私の昭和史1 昭和初期』学芸書林 1969年6月23日)175-176頁