天空海闊

メインテーマ


(文字数に上限あり)


このブログのメインテーマ、それを現す曲など





○ 人生で大切なもの



それは、ほんの僅か









※特選

「自分の道を進む人は、誰でも英雄です」

ヘルマン•ヘッセが幾度か述べた、「自分への道」にも似た、『ツァラトゥストラはかく語りき』ニーチェの提唱

『人間は、克服されねばならない何かだ。 君たちは人間を克服するために、 何をしたか。』

『あなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ』

ラクダ→獅子→幼子、という精神の変化によって、新しい世界を獲得すべし…とある。

以下、私的解釈

ラクダの精神とは、上からの命令、社会のしきたり「汝なすべし」という重苦しいものを背負わされラクダが砂漠へ向かうように、私たちは精神の砂漠を意識すると、やがてそれは渇望を促すものになる。

精神の砂漠を意識できた者たちは、獅子の精神へ変化を遂げる。獅子の精神は、他者からの荷を捨てるよう促し「我欲する」を自覚して「汝なすべし」と私たちを支配する常識や力と対決します。新しい価値を自分の中に創造するための自由は、『獅子のごとく強い精神』でなければ獲得出来ない。

そうして自由を得た者たちは、幼子のごとく*無垢な自己肯定と想像力を体現する時(単なる考えでなく)自由を獲得した獅子でも出来ない、新しい価値を生きるという類い稀な生き方ができる。

それは特定の価値観やルール、また一般的な単語で一絡げにされたり、断罪されるようなものではなく、

その人特有の愛、喜び、悲しみ、などの貴重なオリジナルであり、誰にも侵されないその人の創造物である。







○ 救い(続き)


人類の叡智が輝く日を信じて











○ 答えは自分の中にある(続き)



We all are living in a dream

 

 

○ 人生の楽しみ方


「面白きこともなき世を面白く」

         高杉晋作


実に寂しい 運動会

何であれ、無残な時間に

さらば

「すみなしものは心なりけり」

とはいえ




……

ともすれば人は機械的に生きるようになる

しかし、いつもは通らない道を通ってみたり、いつもは早足で歩く道をゆっくり歩いてみると、いろいろな発見がある

同じ町なのに、違って見える
時には、違う町に来たような気分になれる

多様性を味わうことと同列だが

人生の楽しみ方は
其々の違いもあるが、
其々も常に変化している

わが心の師の変化







○ 救い



あなた
あの人
それからわたし
皆んな
そこに居る♪ 










生涯にわたる課題
哀しみ喜びを
集約したような遭遇

時を辿りながら
自分のすべて
問われている



あなたに会う旅



いくつも トンネル抜けてきた…



….




なんらかのシチュエーション

極く小さな自然の神秘にも

自然の持つ力を感じる時

救いはすぐ側にある

『自然はいつでも帰りを待っている』

母なる自然という表現があるが

それはあまりにも人工的な空間や

作為的な精神で失われた母性に対する渇望

を示しているのではなかろうか?



真の母なる姿…

そこに垣間見る

……



•あなたはオリジナルである。だれかのコピーではない!



….

産まれて間もない子を見て

自分より年上だと感じることがある

親子 兄弟 同期生

年齢 その他、社会的な立場など

すべては見かけであり

魂レベルに変換すれば

多くの深刻な問題の本質の理解に

役立つかもしれない





これも一つの象徴的な解釈?



….



…..




なぜ 我等に



なぜ これだけの試練をわたしに

それは きっと それだけの価値が 

貴方にあるから




「君がいれば」


メキシコに行って

太陽を浴び

知らない果物を食べ

青い海でイルカと泳ぎ

ペットも連れて

草原や湖にも行こう

なんでメキシコなのか

さっぱりわからないけど

いや

どこでも良いんだ

アラスカ

マチュピチュ

ビルがひしめく大都会

場合によっては

地獄も楽しいかな

君がいれば



「人間は結局、何によって救われるのか。それは、たった一つでいい。本当に自分が愛した人、自分が本当に大切に思う人と深く触れ合うことができたという、その一瞬の思い出があれば人間は救われるのだ」

      フランクル『夜と霧』 中略







○答えは自分の中にある



あなたは本来

無償(無条件)のギフト(愛)を受けるべき存在

その証拠に無償の
見る目 聞ける耳がある
空気が吸えている

今生で命を受けたのは
「すべての源」に何かを与えていたからであり

また、何か特別のギフトを受けているなら
あなたがすでに無償で与えていたから





…..

悦ぶ顔がみたい 

それだけ

…..


怒りは

適切かつ明確に

解放(表現)されることを

望んでいる






「ストレスや不安、惨めさを感じたら、内側に入って、その感情と向き合いました。気持ちが落ち着き、自分の中心を感じられるまで、一人で座ったり、自然の中を歩いたり、音楽を聴いたりするのです。そうすると、外側の世界も変わり始めて、何もしなくても障害物が消えていくということに気づきました。”中心にいる”ということは、自分の居場所に気づいているということです。そこは、私たちがいつもいる唯一の場所です。」
        アニータム•ムアジャーニ



私は日々の細かいことで、つい見失ってしまいますが、聖人などではなく、ある程度の自己主義を勧める、女史のことばは、いつも新しいヒントを与えてくれます。それは単なる思想ではなく、不動産に関する相談を宅建士にするかの如く、非常に現実的なのです。

.......

「人間は真実を抑圧していると苦しくなる」
      エベン・アレグザンダー医師

以下、ムアジャーニ女史の言葉からの抜粋ですが、一般的な心理学やカウンセラーの意見とは少し異なる場合があり、彼女特有のユニークさがあります。

「私たちは本来純粋な白光のようなものです。それがプリズム(個人的体験)を通過すると、光が屈折してあらゆる感情を生み出します.
喜び、愛、不安、ねたみ、おもいやり、憎しみ、共感などになります。この感情はすべて必要なものなのです。虹のそれぞれの色に” この色は悪い” “この色は良い” この色は罪深い”などとは言わないはずです。....その感情の幾つかを否定しようとすれば本当の自分の一部を抑圧することになります。すべての感情を受け入れることで自分の純粋な本質とつながれるでしょう。」





語り明かす様な日がくれば

最高 ♪




○ 成功する



…リスクなく

万人受けする人生など不可能

魂に沿った選択

その先に 夢に見た

ホットできる場所…



なにを持って人生の成功とするか?
 
個々で非常に差異があるテーマであるが、
どんな道であれ、知恵や柔軟性が求められる、ある種のゲームである。

臨機応変、空中に上がったり、時には地下に潜航しなければならない。

成功の秘訣は、時には気の重くなるようなシリアスなその過程を、いかに冒険のように楽しめるか?ではなかろうか

「案ずるより産むは易し」ではないが、
一見困難に見えていた事が、視点を変えれば案外簡単な事だっりするものだ。







○ 未来予測




今期のパンデミックは予測されていて

故ホーキング博士の懸念の一つが、









○人生や世界の多様性を味わう



• 名言 目指す理想





如何に世界を味わっても人生は短く、

其々の今生には宿題があるような

気がします

この宿題(優先性)の違いがまた

人生を面白くしているのではないのでしょうか





多様性を楽しむ為の必須条件と感じるのは、かの名言にあります。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり」

現実社会は不平等だから、しっかり勉強して不平等社会の下位にならないようにしよう!

たしかに、これが、学問のススメの真意かもしれません。

しかし、天下に於ける人間世界には「本来上下がない」ことを否定している訳ではないのです。これが重要なのです。

元々、ある人種が他の人種より上である。あるグループが他のグループより上である。

或いは

元々、女より男が上である。子どもよりも大人が上である。このように、

人間関係のすべてを上下関係に帰せようとする、

こうした発想がある限り、社会から暴力的また精神的搾取はなくならず、

心から人や世界の多様性を楽しめない様に思えるのです。

産まれた時から、男女上下なし。大人も子も皆同じ人間である。

生涯それは変わらず、だから例えある人が殺人鬼になっても「死刑=人間として裁かれる」のだと私は感じています。




•人を主に外見や肩書きでジャッジする癖があると、人生で受け取れる豊かさを、かなり得損なっているかも知れません。






•ひとりの中の多様性


人の多様性といっても、抽象的でわかりにくいかもしれませんが、次のようなヒントがあります。

自分という存在を、心理学的に次の様に表現することがあります。ジョハリの窓では、自分について4つに分けて分析します。

①開放の窓(自分も他人も知っている)自分
②秘密の窓(自分は知っているが他人は知らない)自分
③盲点の窓(自分は知らないが他人は知っている)自分
④未知の窓(自分も他人も知らない)自分

如何でしょう?

思い当たりませんか?

自己PRが上手い方は、こうした情報を活用しているようです。

面白いのは、「自分」を別のだれか、例えば「親」にしても当てはまることです。

また、小説などでも、自分の部分を「だれか」に置き換え、内容に深みを持たせていることがあります。以下ヘッセの「デーミアン」より


....僕は視線を釘付けにされたようにして彼の顔あの青白い石のようなマスクを見つめこれがデミアンなのだと感じた。普段僕と一緒に歩いたり話し合ったりするときの彼はデミアンの半身に過ぎない。一時的にある役割を演じて相手と歩調を合わせ、好意から片棒担いでくれるだけの話だ。しかし本物のデミアンはこんな風なのだ。今ここにいる人と同じなのだ。こんなふうに石で作られていて、ものすごく古くて動物的で岩のようで、美しく冷たく、死んでいて、しかも密かにまだ1度もなかったほどの生命に満ち溢れている....












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