靖国神社恒例の秋の例大祭の中、境内は思いのほか(ニュースで見た先入観で勝手に騒々しいと思っていた)静かな雰囲気だった。外国人(といってもアジア系以外)の参拝者が思いのほか多かった。勿論参拝目的でなく観光としてではあるが。
秋の例大祭3日目の行事を終えて厳かに引き上げる神官達。20人以上はいたであろうか。
境内には遊就館と呼ばれる展示館がある。ここには戦没者の遺品を中心に数々のものが展示されている。それに加え当時の兵器類も展示され世界中どこの国にもある軍事博物館のようにもなっている。それらは敗戦国として国としての計画的な収集は当時は無理だったと思うが、多くの篤志家や団体が自主的に南方の土の中から掘り出したり、戦勝国の捕獲品になっていたものを返却いただいたり、徐々に増えてきたようだ。
祀られている人々は主に幕末明治期より始まり”国務により没された人々”つまり錦側として戦死された方々である。勝てば官軍であり、旧幕府側は対象とならない。戦犯者の定義は戦勝国が一方的に定めたもので日本での区別の対処にはならない。従って相手方による刑死者も国務による結果であり他の戦没者と同じく祀られることになる。戦争に負けた以上戦勝国が何をしようとそれはそれで仕方ない。私はそれが戦争だと思っている。戦争は絶対にするな、平和が一番と私も単純に思うが今は日本はなぜ戦争を起こしたか、なぜ負けたか冷静に反省するしかない。
歴史は個々の戦略、戦術でもどんなに犠牲者が出ても勝てば英雄、負ければただの敗残者となるがそれでも仮に当時の基準で見ても意味のない作戦、施策あるいはそれに伴う残虐行為も多くあったのも事実である。日本だけでなくほぼ似たようなことはドイツを始め他国でも行われているが戦争の性として片付けるには余りにも悲惨である。
四一式山砲、分解して馬や人力で運ぶことができ便利だったためかなり活躍したようだ。
九七式中戦車。日本軍の代表的戦車。初めて本物を見た。道路を阻害する機銃等を排除しながら歩兵と進むのがコンセプトだったから、米軍のシャーマン戦車に敵うはずがなかった。それにしても大艦巨砲の大和を作った日本がなぜ大型戦車を作ろうとしなかったのか、多分技術上の問題と鉄資源の問題とまず思うがその前に前提となる戦術の考え方の違いが大きかったのでは無いかと素人なりに推察するがよく分からない。
映画”戦場にかける橋”で有名なタイの泰緬鉄道で活躍したC56 タイに転出したときは日本のゲージ1067mmに対し1000mmに改軌したがこれは車輪のタイヤの幅を増やして対処した。車両限界の都合から運転室の屋根も円弧から平面にカットされていた。同じ理由で煙突もわずかばかりカットされたという。連結器もT型と呼ばれるものに換装、除煙板も取り外し見慣れたC56とは少し趣が違う。C56は簡易線用に開発された機関車だがテンダーを持つ為、水補給の少ない森林でも長距離使えて便利だった。さらに現地用としてはジャッキを搭載し、脱線にも対処していたhttp://www.geocities.jp/itotsune6286/iiyama.htm
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