福島県相馬市は宮城、岩手に比べて被害は少ないとはいえ、やはり実際に被災した方々は苦しい日々を過ごしています。
原発問題で、多くの市民が県外に避難する中、原発付近の地域から相馬へ逃れてきた方々も多く避難所にいらっしゃいます。
我が家は倒壊を免れましたが、私と主人が経験したことをお伝えします。
3月11日、私は相馬市松川浦近くにある小さな私立幼稚園に通う娘を迎えに行った帰りの車中に地震に遭いました。
主人と下の息子も一緒にいたので、そのまま山方面に走り、遠くに津波が押し寄せる様子を目を凝らして見つめました。
娘の幼稚園は津波に飲まれたと思い、迎えがあと少しおそかったら…と恐怖しました。
震災から約一週間後、私の主人は縁あって、娘の通った幼稚園の園長の子息T先生と副園長である園長夫人と避難所を回って、避難所の子供たち向けに遊びの場を提供をしようとボランティアを始めました。
私も便乗しました。
各避難所では、食事の供給だけでなく、被災者の子供たちへの対応も違っていることがわかりました。
ある避難所では、避難所となっている学校の一部屋を学習室として設け、自校の生徒ではないのに、学習時間を設けるなどしているのですが、別の避難所では全くの野放し状態。
ボランティアの申し入れも、前者は協力的でしたが、後者は余計なことをしてくれるなといった様子でした。
そういった所の子供たちは何をするでもなく、周りの子供たちと遊んだり、喧嘩したり・・・
走り回って周囲の大人たちに叱られることも多々あったようです。
私たちは主な避難所を4か所回り、空いてるスペースを借りて約1時間ずつ回りました。
幸い幼稚園はぎりぎりのところまで津波は押し寄せてはいたものの無事だった幼稚園から色々と持ってきてくださいました。
粘土遊びや、折り紙、絵本の読み聞かせや、ささやかなゲームをするだけでしたが、
未就学の子供たちも、小学生も、避難所での生活に募らせた不安感や、疲れがあったのだと思います。
多くの笑顔が見られました。
家や家族を失くした子もありました。
でも一時でも笑ってくれました。
けれども、避難所の子供たちが次第に減っていきました。
原発への恐怖から多くが相馬から避難したり、ライフラインの復旧で家が残っている避難者が帰ったというのもあるでしょう。
また、ある市議会議員の方が野放し状態の一つの避難所に的を絞り、子供たちのために遊びや学習の場を設けてくれることになりました。
ある避難所では、使わせていただいていたスペースが、大量に届く物資置き場となってしまいました。
園長夫人もT先生も幼稚園やご自分のたちの生活のこともあるということもあり、約8日間で私たちの活動は終わりを迎えました。
その8日間で知った園長家族のこと。
T先生が地震でアスファルトが裂ける中、送迎バスにいた子供たちに覆いかぶさったこと。
園長、T先生が大津波警報の中、必死で子供たちを送り届けたこと。
園長夫妻の自宅は流されてしまったこと。
T 先生は結婚式直前だったこと。(国際結婚なので、奥様は母国に足止め)
津波でさらわれた家のあとを訪れて、多くの遺骸を目にしたこと。
流されたがれきの中から、津波後に1度訪れてあったはずの物品が、あくる日には盗まれてしまっていたこと・・・
被災者は、みんなそれぞれ大変につらい思いをしていると思います。
家族を失くした方からすれば、この園長家族は家を失くしただけなんだからいい。。。と思われるでしょう。
でも、自分に置き換えてみたら?
そんなことは言えない。
そんな中でもくさらず、出来ることをしようと、全力を尽くしたT 先生と園長夫妻に、私は称賛を送りたいのです。
自分たちの被災の苦しみを一切私たちには見せることなく、
この8日間、避難所の子供たちのために足を運び、
遠くに逃げるためではなく、避難所の子供たちのために、ガソリンを求める長蛇の列に並び、
ご自分たちだって満足な食料もなく、疲れ果てていたはずなのに、手伝う私たち夫婦までも気遣ってくださった・・・
明日3月31日、娘の幼稚園で卒園式の代わりに「旅たちの会」をとり行って下さることとなりました。
まだまだ多くの園児家族が相馬市外に避難しているため、参加できる者のみで行います。
原発がどうなるかもわからないし、本当なら避けたかったであろうご決断をされた園長先生にも心から感謝します。
福島県相馬市。
原発の息がややかかるだけで、被災の規模も宮城、岩手に比べると少なく、報道される方々には中途半端で注目に値しない地域なのかもしれません。
他にもそんな地域も多くあるとは思います。
そんな地域の目立たないところで、精一杯に頑張っているこの幼稚園の園長夫妻、息子さんのことをお伝えしたくて長々と書かせていただきました。
多くの方が頑張っていますが、多くの方が絶望しています。
これから、この相馬を離れていく人々は大勢いるでしょう。
復興なんてできるんだろうか・・・
くじけても、へこたれても、そのあとに、私はこの園長一家をを思い出して前に進もうと思います。
原発問題で、多くの市民が県外に避難する中、原発付近の地域から相馬へ逃れてきた方々も多く避難所にいらっしゃいます。
我が家は倒壊を免れましたが、私と主人が経験したことをお伝えします。
3月11日、私は相馬市松川浦近くにある小さな私立幼稚園に通う娘を迎えに行った帰りの車中に地震に遭いました。
主人と下の息子も一緒にいたので、そのまま山方面に走り、遠くに津波が押し寄せる様子を目を凝らして見つめました。
娘の幼稚園は津波に飲まれたと思い、迎えがあと少しおそかったら…と恐怖しました。
震災から約一週間後、私の主人は縁あって、娘の通った幼稚園の園長の子息T先生と副園長である園長夫人と避難所を回って、避難所の子供たち向けに遊びの場を提供をしようとボランティアを始めました。
私も便乗しました。
各避難所では、食事の供給だけでなく、被災者の子供たちへの対応も違っていることがわかりました。
ある避難所では、避難所となっている学校の一部屋を学習室として設け、自校の生徒ではないのに、学習時間を設けるなどしているのですが、別の避難所では全くの野放し状態。
ボランティアの申し入れも、前者は協力的でしたが、後者は余計なことをしてくれるなといった様子でした。
そういった所の子供たちは何をするでもなく、周りの子供たちと遊んだり、喧嘩したり・・・
走り回って周囲の大人たちに叱られることも多々あったようです。
私たちは主な避難所を4か所回り、空いてるスペースを借りて約1時間ずつ回りました。
幸い幼稚園はぎりぎりのところまで津波は押し寄せてはいたものの無事だった幼稚園から色々と持ってきてくださいました。
粘土遊びや、折り紙、絵本の読み聞かせや、ささやかなゲームをするだけでしたが、
未就学の子供たちも、小学生も、避難所での生活に募らせた不安感や、疲れがあったのだと思います。
多くの笑顔が見られました。
家や家族を失くした子もありました。
でも一時でも笑ってくれました。
けれども、避難所の子供たちが次第に減っていきました。
原発への恐怖から多くが相馬から避難したり、ライフラインの復旧で家が残っている避難者が帰ったというのもあるでしょう。
また、ある市議会議員の方が野放し状態の一つの避難所に的を絞り、子供たちのために遊びや学習の場を設けてくれることになりました。
ある避難所では、使わせていただいていたスペースが、大量に届く物資置き場となってしまいました。
園長夫人もT先生も幼稚園やご自分のたちの生活のこともあるということもあり、約8日間で私たちの活動は終わりを迎えました。
その8日間で知った園長家族のこと。
T先生が地震でアスファルトが裂ける中、送迎バスにいた子供たちに覆いかぶさったこと。
園長、T先生が大津波警報の中、必死で子供たちを送り届けたこと。
園長夫妻の自宅は流されてしまったこと。
T 先生は結婚式直前だったこと。(国際結婚なので、奥様は母国に足止め)
津波でさらわれた家のあとを訪れて、多くの遺骸を目にしたこと。
流されたがれきの中から、津波後に1度訪れてあったはずの物品が、あくる日には盗まれてしまっていたこと・・・
被災者は、みんなそれぞれ大変につらい思いをしていると思います。
家族を失くした方からすれば、この園長家族は家を失くしただけなんだからいい。。。と思われるでしょう。
でも、自分に置き換えてみたら?
そんなことは言えない。
そんな中でもくさらず、出来ることをしようと、全力を尽くしたT 先生と園長夫妻に、私は称賛を送りたいのです。
自分たちの被災の苦しみを一切私たちには見せることなく、
この8日間、避難所の子供たちのために足を運び、
遠くに逃げるためではなく、避難所の子供たちのために、ガソリンを求める長蛇の列に並び、
ご自分たちだって満足な食料もなく、疲れ果てていたはずなのに、手伝う私たち夫婦までも気遣ってくださった・・・
明日3月31日、娘の幼稚園で卒園式の代わりに「旅たちの会」をとり行って下さることとなりました。
まだまだ多くの園児家族が相馬市外に避難しているため、参加できる者のみで行います。
原発がどうなるかもわからないし、本当なら避けたかったであろうご決断をされた園長先生にも心から感謝します。
福島県相馬市。
原発の息がややかかるだけで、被災の規模も宮城、岩手に比べると少なく、報道される方々には中途半端で注目に値しない地域なのかもしれません。
他にもそんな地域も多くあるとは思います。
そんな地域の目立たないところで、精一杯に頑張っているこの幼稚園の園長夫妻、息子さんのことをお伝えしたくて長々と書かせていただきました。
多くの方が頑張っていますが、多くの方が絶望しています。
これから、この相馬を離れていく人々は大勢いるでしょう。
復興なんてできるんだろうか・・・
くじけても、へこたれても、そのあとに、私はこの園長一家をを思い出して前に進もうと思います。
園長、T先生が大津波警報の中、必死で子供たちを送り届けたこと。
園長夫妻の自宅は流されてしまったこと。
Fortunately it´s also presented in your blog, assuring a good coverage.
Keep up the good work !