中勘助の「銀の匙」を読んでて、泣けて泣けて(笑)
っていうのも、このブログでも過去になんどか紹介したことのある「米田のおばちゃん」を思い出したんですね。私と彼女の出会いは、私が4歳の頃。我が家が引っ越した隣に住んでたのが米田家でした。我が家は父が29歳、母が27歳、まだ弟は母のお腹の中にもいなかったかな?
米田家はおっちゃんとおばちゃんと・・・それぞれ年齢が50歳前くらいかな?お子さんが3人いて、長男さんは社会人、次男さんと長女さんが大学生っていう感じの一家でした。
で、幼少の頃から人見知りしない私が、いきなり隣の米田さんちへ入って自己紹介したそうな(笑)
それから、今思えば本当に可愛がってくれました。全くアカの他人なのにね。父は若くして両親に死に別れ、母は新潟から出てきての慣れない大阪ぐらし。今でももちろんそうだけど、新潟と大阪の文化は全く違うんですね。それをこの米田のおばちゃんが、我が息子、我が娘のように色々教えてくれたそうな。
私ももちろん大阪に祖父母はいません。幸せなことに新潟には母の母がまだ健在なのですが、ちょうど米田さんちにもまだ誰も結婚もせず、孫がいなかったせいもあって、私を本当の孫のように可愛がってくれたんですね。
以前も書きましたが、米田さんはパン屋さんもやってました。町内にあるパン製造工場の売り場も兼ねていたのです。そしてそのせいか、十三の映画館二箇所、町内の映画館一箇所の看板を立ててて、「ビラ下鑑賞券」をたくさんもらってたみたいで、私の映画鑑賞デビューはこの米田のおばちゃんとの東宝ゴジラ映画でした。
また、今思えばこの頃からおばちゃんは基本的に身体が弱かったんでしょうね。私を連れてよく当時まだ大阪市内にあった「長堀病院」へ同伴させてました(笑)今思えば幼児を病院に連れていくなんてもってのほかの行為ですが、私はそれがうれしくってね。まだその当時わが町から梅田までは大阪市営のトロリーバスが走っていましたし、梅田からはチンチン電車にも乗りましたし、地下鉄にも乗せてもらいました。私と同世代以上の大阪の人は多分覚えていると思いますが、当時(40年以上昔の話)地下鉄の改札口付近では割烹着姿のおばちゃんが地下鉄の券を手売りしていたんです。これは、大量に回数券を買い、それを我々利用者に定価で売り、回数券の1回分を粗利とする商売です。1000円で11枚ついてて、全部売れたら100円の儲けってことですね。この大阪名物回数券売のおばちゃんから、切符を買っていました。
余談になりますが、1970年に開催された日本万国博覧会で、大阪にそれまで合ったものがずいぶん無くなりました。
トロリーバスやチンチン電車・・・チンチン電車はまだ阪堺電車がありますが、大阪市営のものは万博が始まるまでに無くなったんですね。あと、この割烹着姿の切符売りのおばちゃんも大阪市側から排除されたそうな。あと、大阪市内のほとんどが水洗式トイレに替りましたね。
病院で診察した後は、四天王寺の縁日・・・通称「お大師さん」に連れていってもらったり、当時はまだまだワンダーランドであったデパートの屋上や大食堂でごちそうになったり、私は両親にはほとんどどこにも連れてってもらいませんでしたが、米田のおばちゃんにはホントあちこち連れてってもらったなぁ・・・
っていうのも、実は私が5歳になる前に弟が生まれたんですね。親父は仕事で忙しく、母は妊娠出産育児と大変な時期でした。
で、こうして米田のおばちゃんが私の入園式に保護者としてついてきてくれたんです。
今の時代ではありえない話です。「銀の匙」の主人公は幼い頃からとある事情で同居していた伯母に育てられました。病弱だった主人公に優しく薬を銀の匙に入れて飲ませてくれた・・・私にとっての「銀の匙」はこの米田のおばちゃんなのは間違いがないんですね。
写真からも分かるように、本当にグラマラスなバディをしてました(笑)私が巨乳好きなのも(爆)実は母も巨乳なのですが、このおばちゃんの白い大きなおっぱいの触り心地がとてもよかったこと。また一緒にお風呂に入った時のあのお湯にプカプカ浮かぶおっぱいにとても母性を感じたのでしょう。私はおばちゃんのことを「航空母艦」って呼んでいたそうです(笑)そしてお腹に大きな傷跡が・・・今思えば帝王切開の傷跡だったのでしょう。おばちゃんの圧倒的な裸体は未だに覚えている私です(笑)
この写真は宝塚ファミリーランドに連れてってもらった時のもの。昭和40年代前半頃までは中年女性はこうしてお出かけの時は和服なんですね。私たちもいわゆる一張羅を着て気合を入れてお出かけです(笑)ちょっとポージングしてる私がかわいい(笑)
本当に色々なお話をしてくれました。彼女は岡山出身なのですが、関東大震災の時には岡山も揺れただとか、花札のルール、大正琴やウクレレの弾き方(笑)また「命の母A」だとか「中将湯」なども服用してたなぁ・・・今思えば丁度私が米田家に出入りをしてた頃は更年期ってことだったのかもしれません。
あとね、自分自身もそうだったのかもしれないけれど、「女の子はイケズやろ?」なんて、女の子以上にイケズな私によく言ってました(笑)地元の市場には必ずおばちゃんと行きました。母は連れてってくれないんです。それはなぜか?(笑)原因は私にあるんですね。私は市場のスターだったんです(笑)色々な店の店頭で当時の流行歌を歌っては5円、10円の小遣いを稼いでいたんです(笑)母はそれがメチャ恥ずかしかったそうです。なのでおばちゃんがいつも連れてってくれましたね。
4歳ぐらいから小学校の3,4年の頃までは本当によくおばちゃんちへ遊びに行きましたし、私の生活も米田家で過ごすことが多かったです。さすがに小学校高学年以降は、お年玉を貰いに行くことなどで、年に2,3回しか遊びに行かなかったけどね。っていうのも、私のことを溺愛してくれることが、生意気な話ですがさすがの私も鬱陶しく感じたってことなんですね。決して私のことを怒ることはない人でしたが、どこであっても「しんちゃんしんちゃん」って声をかけられることはやはり小っ恥ずかしいものでした。
私のアルバムの中にも、彼女との写真は小学校低学年くらいまでのものが最後です。
そしてここに、私が持ってる彼女の最後の写真があるんですね。
1984年4月29日の私の結婚式。もう27年も前の話なので、ここに映ってるメンバーの中では、嫁の両親も含め、もうすでに10人以上が鬼籍に入りました。ここに米田のおばちゃんがいるんです。彼女だけクローズアップしてみます。
今思えばまだそんなに年はとってないんだよね。70前だと思う。65歳くらいかな?
もともと体型が如実に表すように、彼女は高血圧で糖尿病でした。若い頃から私を病院へ連れてったのは持病のためだったと思われます。
もちろん披露宴に参加して欲しかったんです。しかし、この時すでに披露宴に参加できるような体力は残っていませんでした。
しかし、私たちもお願いし、彼女ももちろんそれを強く願ってくれたので、こうして集合写真だけは収まってくれました。私と一緒に写っている写真はこれが最後の写真です。ちなみに、私たちの仲人さんは米田さんの長男ご夫婦。私を愛してくれたように、私のオヤジもずっとわが子のように愛してくれてました。オヤジはその恩返しの意味も込めて、息子さん夫婦に花を持たせたかったみたいです。
今でももちろんオヤジと米田さんの息子さんたちとは交流があり、年になんどか一緒に旅行をし、米田夫妻の墓参りも一緒に同行するような仲です。
「銀の匙」を読んで、米田光栄さんの事を思いだし、こうして彼女との思い出を熱く語ってしまいました(笑)お盆に相応しいテーマかな(笑)
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