「歴史の回想・滝沢馬琴」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
曲亭馬琴(滝沢馬琴)(きょくていばきん)(1767年~1848年)江戸時代の読本・合巻作者。本姓滝沢氏。名は興邦。俗称は左七郎、左吉、清右衛門。号は著作堂主人、蓑笠魚隠、飯台陳人、玄同など。父滝沢興義は松平鍋五郎源信成の用人、その五男として生まれ江戸深川の松平邸内で生まれる。9歳の時父が死に、長兄が他家に仕え、次兄も他家に仕え去り、場君が滝沢家を継いで主君の孫八十五郎に仕えた。14歳の時主家を出走し、儒学・医学に身が入らぬまま俳諧、戯策ににふける。1791年(寛政3)京伝門人大栄山人の名で処女作の黄表紙「尽用而二分狂言」を刊行。翌年地本問屋蔦屋重三郎に認められ幾つかの黄表紙出版。この年会田氏海老屋市郎兵衛の娘百を娶り清右衛門を名乗るが、やがて商売をやめ、滝沢姓に戻る。1804年(文化元)に本格的読本の初作「月氷奇縁」出版1807年、「南総里見八犬伝」の刊行が始まり、競合関係にあったかつての師山東京伝を凌駕して読本の第一人者の地位を不動のものにした。寛政の改革によって次々と戯作を断念していった同時代の作者に対して、馬琴は勧善微悪と理想主義を貫くことによって身をかわして読本分野を大成した。子息鎮五郎興継は医術を修めて宗伯と名乗り妻路との間に一男二女を設けた。滝沢家復興の期待を一身に負った宗伯は1835年(天保6)38歳で死去。1841年には妻百没。以降寡婦路は盲目となった馬琴を助けて「八犬伝」を代筆して完成へ導いた。滝沢家の記録は1822年(文政5)~1842年(天保6)の「吾賀仏之記」1835年(天保13)の「後の為の記」など多数の戯作を残した。
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「高僧名僧伝・忍性」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」「
忍性(1217年~1303年)鎌倉時代の律宗の僧。鎌倉の極楽寺開山長老。字は良観房。大和国の人。幼少より母の影響で文殊菩薩信仰に触れ、母の死を契機として出家を決意した。1239年(延応元)23歳で西大寺叡尊と出会い、戒を受けてその弟子になった。彼は母の解脱のため、大和国の非人宿に文殊菩薩の図像安置することに念願としており、忍性の文殊信仰が取り入られ、非人を文殊菩薩の化身とみなす西大寺流律宗による非人救済運動だ展開されていくこととなった。忍性も癩病(ハンセン病)のために足腰の立たない奈良坂の非人を、毎日奈良の市まで背負って送り迎えをし、乞食で生計が成り立つようになど、非人救済に奔走した。1252年(慶長4)36歳で律宗の東国布教を目指して関東に下向し、常陸三村寺に住した。1262年(弘長2)師叡尊の鎌倉下向に際しての活動で忍性も鎌倉幕府の北条氏の信頼を得、多宝寺を経て、1267年(文永4)生涯の活動の拠点となる極楽寺に住した。以降、鎌倉に有って非人救済・左道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。彼が鎌倉に建立した療病施設・桑ケ谷療病では20年間に癒ゆる者4万6千八〇〇人、死する者一万四五〇人で五分の四が治癒したといわれている。彼の慈善事業は鎌倉和賀江島の律の修築のために升米を取り、桑ヶ谷療病所の費用として土佐国大忍荘を北条時宗から寄進されるなど、鎌倉幕府の交通政策や慈善事業政策を代行する体制補完的な役割も果たした。その勧進活動における事業家的能力を買われて、東大寺大勧進、四天王寺別当、摂津多田院別当などを歴任し、多くの寺社の勧進・復興を成し遂げた。彼の死後、その遺徳をしのんで描かれた追慕像とされる絹本着色像が残されている。
「高僧名僧伝・一遍」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
一遍(1239年~1289年)鎌倉中期の念仏聖。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫、通広の子、幼名は松寿丸、10歳で出家して髄録と名乗り、1251年(建長3)大宰府に赴き浄土宗西山派の聖達や華台に師事して名を智真と改めた。1263年(弘長3)父の死によって帰国して還俗したが、数年後に再出発して聖戒(一遍の弟あるいは甥)とともに聖達を訪れた。1271年(文永8)信濃の善光寺に参籠して「二河白道図」写し、それを伊予国窪寺の草庵に持ち帰り念仏を専心した。やがて十劫の昔に阿弥陀仏が悟りを開いたことと、今の衆生が一念で往生できることが
同時一体であることを感得し十一不二頌を作成。1273年に伊予の岩屋寺に参籠し、翌年、超一・超二・念仏房の三人と遊行の旅に出る。四天王寺・高野山に参籠して、念仏札を配って歩いたが、札の受け取りを拒否されて困惑する。しかし熊野本宮で、衆生の往生はすでに名号によって定まっているので信不信、浄不浄にかかわらず札を配れ、との熊野権現の啓示を受けて信仰を確立。名を一遍と改めて超一らと別れて、「南無阿弥陀仏」【決定往生六十万人】ときされた札を配り賦算ながら、九州から奥州までほぼ全国を遊行して回った。1279年(弘安2)には信濃国小田切の武士の館、踊念仏を始めている。一遍は寺や道場を建立することなく遊行を続け始めた。一遍に付き添う時衆のための、1287年に生活必需品を12種に限定。宿所ではそれらを修める十二光箱を僧尼の間に置いて男女問題の発生を抑止しようとした。1280年(正応2)所持していた聖教を焼いて播磨国兵庫の観音堂で没した。伊勢や熊野などの神社信仰と親和的な点思想的の特徴がある。
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「歴史の回想・柳生十兵衛」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
柳生十兵衛(柳生三厳)(やぎゅうみちよし)1607年~1650年)江戸初期の幕臣、剣術者。柳生宗矩の長男。幼名七郎、通称十兵衛。1616年(元和2)徳川家康に拝謁。1619年から家光に仕え籠があつかったが、1626年(寛永3)には勘気を受けて、柳生に帰って柳生流武芸の研鑽に励んだ。1638年までには許され、1646年(正保3)父の遺領の内8300石を継いだが、44歳で急死した。若いころからかなりの暴れ者であったというが、剣術には早くから才を示し理論上の研究も深めて「月之抄」などの述作がある。隠密として諸国を回ったとか、集眼の剣豪であったなど、伝説は多いが信憑性は薄い。
「高僧名僧伝・道元」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
「道元(1200年~1253年)鎌倉時代の僧。別名希名玄。日本曹洞宗の始祖。永平寺開山。父は内大臣久我通親。母は藤原基房の女。京都の木幡に生まれる。3歳で父を失い、8歳で母の死に目に会う。13歳の時、基房が養子を望んだが出家を決意して比叡山の麓の母方の良観の室に投じ、横川の首楞厳院の般若谷先光房で出家生活に入った。慾1213年(建保元)天台座主光円について得度、授戒したが、天台教学に疑問を持ち、園城寺の公胤を尋ねて入宋求法を進めらえて1217年の秋、栄西開創の建仁寺に入り、明全に師事した。承久の乱(1221年)を契機に明全は東大寺に受具の戒牒を制作し、道元は明全から師資証契の印可を受けて、入宋準備を始め、1223年(貞応2)明全とともに入宋した。明州慶元府に着き、船中で阿育王山の典座にあって禅に開眼。太白山天童寺景徳禅寺に赴き、臨済禅の無際了派の下で学び只管打坐を会得した。仏祖の命脈伝授を証明する嗣書の閲覧を許され、正師を求めて怪山万寿寺、天台山万年山寺などを巡錫したが得られず、天童山如浄を正師として師事した。如浄の下で厳しい修行の末、1225年に悟りを開いた。1227年(安貞元)秋、如浄の印可を得て帰国。建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」撰述して坐禅の本義宣言した。1229年(寛喜元)道元を訪れた達磨宗の孤雲懐奘に入門を約したが、延暦寺の圧迫、如浄の訃報などにより、1231年の春、山城深草の安養院に閑居し「正法眼蔵」「弁道話」を著し、宗旨の綱領を説示した。1233年(天福元)の春、正覚禅尼、弘誓院らの外護者の招請もあって、深草の地に観音導利興聖宝林寺を開創し、1236年(嘉禎2)僧堂を開き衆を集めて説法した。多くの信徒を集め説法や、六波羅蜜寺などで示衆、朝廷に「護国正法義」を呈するなどして積極的な教化活動を行った。そのため再び延暦寺に迫害され、洛外追放になり興聖寺は破却された。道元は京都での教化活動を断念し、如浄の遺訓により、京都を離れ在俗信徒の武士波多野義重越前の白山平泉寺を教化活動を行い、大仏寺が建立された。後に同寺を永平寺に改めて弟子の育成にあたった。所が北条氏の余勢によって鎌倉に下向、翌年病に帰洛し京都西洞院の弟子の邸で没した。
「高僧名僧伝・以心崇伝」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
以心崇伝(1569年~1633年)江戸初期の臨済宗の僧侶。円照本光国師。京都南禅寺の塔頭金地院に住したので金地院崇伝ともいう。室町幕府四職家の一色氏の出身。室町幕府滅亡後に南禅寺の玄圃霊三に師事、1605年(慶長10)に建長寺住持、ついに同年の内南禅寺住持となる。鹿苑僧録の西笑承兌の推挙で1608年駿府で徳川家康に面謁し、以降外交文書の起草に従事。1610年以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取り締まりになど宗教関係の行政にあたった。また家康の指示で内外の古典を収集・調査し、伴天連追放令や禁中並公家諸法度、武家諸法度をきそうした。家康の死後は江戸に移り、1619年(元和5)禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任命された。1626年(寛永3)国師号を受ける。翌年紫衣事件では沢庵宗信彭らの厳罰を幕府に進言した。幕政における崇伝の役割は、五山僧として学殖と教養に基ずき将軍の諮問に答え、外交文章や法度などの文章にあたるとこにあり、政策決定に参加するものではなかった。僧侶でありながら幕政を左右したという意味では「黒衣の最相」という後世の評価は過大評価である。職業上の記録「異国日記」「本光国師日記」「出世大望之衆目子留書」は幕府の重要資料である。
「高僧名僧伝・聖宝」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子
聖宝(832年~909年)醍醐寺開祖で当山派修験の祖と仰がれる。平安初期の真言僧。理源大師。天智天皇6世の孫で俗名垣蔭王。847年(承和14年)16歳で東大寺に入り、空海の弟子真雅を師として出家、三論・法相・華厳の各宗を学んだ。869年(貞観11)興福寺維摩会の堅義を務めた。874年醍醐寺の密教修業の道場として開き、880年(元慶4)高野山で真然に密教の大法を授かり、実践面の山林修行により験力を得、加持祈祷により庶民を救うことに尽力。大峰修業路を復旧し、中世後期から修験道の中興と仰がれれる。東大寺東南院を建立、貞観寺座主・東寺長者等を歴任。
「高僧名僧伝・法然」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
法然(1133年~1212年)浄土宗開祖。諱は源空、諡号は円光大師。父は美作国久米郡押領使の漆間時国、母は秦氏。9歳の時、夜討ちで父を亡くし、同国菩提寺の観覚のもとに預けられた。15歳で比叡山に登って持法房源光、ついで功徳院皇円に師事して天台三大部を学ぶ。1150年(久安6)18歳で遁世して、西塔黒谷別所の慈眼房叡空の室に入り、法然房源空と称した。叡空は融通念仏の良忍の弟子で、円頓菩薩戒を伝持した人物であり、法然は浄土教と円頓の両者を学び受けた。法然はこののち生涯持戒を貫き、授戒戎師としても活躍している。顕密諸宗を学んで南都に遊学したのち、1175年(安元元)43歳で善導の「観無量寿経流」により改心した。凡夫も称名念仏で往生できると確信し、浄土宗を開いて、東山大谷の吉水に移った。1186年(文治2)延暦寺の顕真の発議で大原の勝林寺で浄土教を論じ、この大原問答で一躍注目を集めるようになり、1189年からは九条兼実邸に出入りするようになる。1190年(建久元)には重源の要請で、東大寺で浄土三部経を講説し、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である。との選択本願念仏説を初めて披露した。1198年には三昧初得や夢中での善導対面などの神秘的体験によって思想的確信を深め、九条兼実の要請もあって「選択本願念仏集」を撰述本願念仏説を体系化するとともに、これを唯一の真の浄土教と主張した。しかし当時、最も低劣な行いと考えらえていた称名念仏を唯一絶対的価値を持つ往生行であると位置づけ、それ以外の一切の善行を往生行であるとしては無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものである。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。そのために法然児は、治承・寿永の内乱後の社会的激流の渦の中に巻き込まれていくことになる。旧仏教は、諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾し、善行を妨げ念仏義を誤る悪魔の使いと非難した。1204年(元久元)には延暦寺が、翌年には興福寺が顕密八宗を代表して専修念仏禁止を上奏した。法然は七箇条制誡や送山門起請文を記して、弟子に旧仏教批判の自粛を求めて弾圧の回避を図ろうとした。朝廷は当初念仏と専修念仏の違いを理解できなかったこともあって、法然自ら自粛を求めるだけで処罰を行わなかった。1207年(建永2)に後鳥羽院の女房の無断出家が発覚して、院が激怒した。2月に専修念仏禁止令が発布され、弟子4名が死刑、法然も土佐に流罪となった。法然は同年12月に最勝四天王院供養の恩赦でで赦免され、摂津勝尾寺に寄萬。1211年(建暦元)11月帰洛を許され、翌年1月25日、大谷の住坊で「一枚起請文」を残して没した。
「高僧名僧伝・覚鑁」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
覚鑁(1095年~1148年)平安後期の僧。真義真言宗の祖。祖号は正覚房。覚鑁上人、密巌尊者ともいう。肥前国藤津荘の伊佐氏の出身。1110年(永久元)仁和寺で出家し、1114年(永久2)東大寺で受戒。1121年(保安2)仁和寺成就院で寛助から伝法灌頂を受けた。真言教学振興のために高野山伝法の再興を発願し、紀伊国石手荘などの施入を受けて、鳥羽院の支援の下、1132年(長承元)に高野山に大伝法院・密厳院を落成。さらに密教諸流の遍学を志し、院の保護もあって園城寺の覚猶、醍醐寺の定海、勸修寺の覚信らから受法し、鳥羽宝蔵の秘書を閲覧。1134年に院宣により金剛峯滋座主となり、高野山一山を支配し。しかし大伝法院を中心とする高野山の再編は、金剛峯寺・東寺・醍醐寺の反発を招いたたため、1135年(保延元)密厳院に蟄居して無言行に入り座主を辞任。1140年の武力衝突で密厳院が襲撃されたために、根来山に逃れ、そこに円明寺を創建して没した。門弟はその後も金剛峯寺と和議・衝突を繰り返したが、1288年(正応元)の紛争で完全に決別し、ここに覚鑁の系統を真義真言宗とする。1540年(天文9)自性大師の勅諡号を与えらえたが、延暦寺の反対で撤回。1690年(元禄3)に興教大師号を与えらえた。覚鑁は密教を総合した伝法院流を開き、その著「五輪九字明秘釈」では大日如来と阿弥陀如来が同体なることを論じて浄土教を真言密教取り入れた。
「高僧名僧伝・叡尊」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子
叡尊(1201年~1290年)鎌倉時代の律宗の僧。西大寺の中公開山。興正菩薩ともいう。字は思円房。興福寺の学侶慶玄の子として大和国に生まれる。母は藤原氏。1207年(承元元)7歳で母を失って、醍醐寺門前の巫女の養子になり、その縁で醍醐寺に入って1217年(建保5)17歳で醍醐寺恵操を師として出家した。以後、醍醐寺・金剛峯寺・東大寺などで真言密教を学ぶが1234年(文暦元)真言密教の行者が多く魔道に堕ちてゆくのを見て疑問を抱き、その理由は戒律を守っていないことと結論して、戒律の復興を志すに至った。1236年(嘉禎2)9月覚盛・円晴・有巌とともに東大寺法華堂で自聖自戒をし、好夢を感じて比丘となった。大和海竜王寺を経て、西大寺に住み、1238年(暦仁元)以降そこを拠点として戒律の普及に努めるとともに、社会体制の外部に排除・疎外された非人救済運動も展開した。彼の非人救済は非人を文殊菩薩の化身としてみなし非人施行を行うもので、その最大の行事が1269年(文永6)3月に奈良坂中腹にある般若寺の文殊菩薩像の完成を記念し、非人一人一人に斎戒を受けるとともに、米などの食糧や浅鍋などの乞食の道具が施行された。1262年(弘長2)には鎌倉幕府の北条時頼の招きで鎌倉に下向した。蒙古襲来を契機として、聖朝安穏のため、伊勢神宮や石清水八幡宮に詣でて異国降伏の祈祷も行った。1286年(弘安9)に宇治川の網代破却によって殺生禁断を実行することを条件として、宇治橋を再興するなど、勧進・修造活動に活躍した。著書には自叙伝「感心学正記」や「梵網経古述記輔行文集」などがる。
「高僧名僧伝・栄西」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
栄西(1141年~1215年)平安末期から鎌倉初期の僧。日本臨済宗の初祖とされる。「栄西えいさい」ともいう。号は明庵。千光国師ともいう。備中吉備津宮神宮賀陽氏の人。14歳で出家、天台と密教を学ぶがとくに大山の基好からは禅宗が請来する頃まで密教をを受法している。1168年(仁安3)4月入宋して天台山・阿育王山などを巡拝重源と出会ってともに帰国、天台座主明雲に請来の典籍を呈す。その約20年間は密教の研鑽と撰述を専らとし、台密葉上流の祖となる。1187年(文治3)再入宋してインドに行こうとして許可されず、天台山へ赴いて臨済宗黄龍派の虚菴懐敞に会う。密教と禅について問答を交わし、天台山から天童山へ移る虚菴に従って臨済宗を受法。1191年(建久2)に帰国して筑前博多聖福寺で禅法を説き、また「出家大綱」を著して戒律、とくに比丘戒の重要性を強調した。筥崎の良弁の訴えもあり、延暦寺からの圧力で1194年朝廷から、達磨宗の大日能忍とともに弘法を停止される。これに対して1198年「興禅護国論」を撰し、自ら意図が最澄の古法の復興にあること、叡山教学に禅の否定であることを述べ、禅宗が時機相応・鎮護国家の教えであると主張した。1199年(正治元)頃鎌倉に降り、源頼朝の忌日法要や密教祈祷の導師を務めるなどして幕府の帰依を受け、寿福寺を建立して鎌倉での地歩を築き、1202年(建仁2)には将軍源頼家の本願で建仁寺の建立に着手、3年で完成して再び京に拠点を得た。その後も幕府の権威を背景とし、重源の後を受けて東大寺の勧請職についたり法勝寺の塔を再建するなどし、京と鎌倉を往来して活躍して、1213年(建保元)権僧正にに任じられた。従来、密教との兼修という栄西の禅は純粋禅の宣揚による軋轢を避けた便宜的なものとされ、建仁寺に真言院・止観院を置いて延暦寺の末寺としたものも同様の配慮であるとみられている。しかし「興禅護国論」の主張や建仁寺建立中に撰した「日本仏法中興願文」を見ると、一貫して戒律の厳守による仏教界の刷新と最澄への復興が述べられており、密教と禅の兼修も便宜的な姿勢でなく、積極的な宗風であったと思われる。また明全を通じて道元にも多大な影響を与えている。1215年(建保3)6月5日鎌倉で母したといわれるが、京で没したともいわれている。
「高僧名僧伝・円仁」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
円仁(794年~864年)平安前期の天台僧。下野国都賀郡の人。俗姓は壬生氏、父は都賀郡の三鴨駅長麻呂。幼時、栃木県下都賀郡岩舟町に現存する大悲寺の広智に師事し最澄の創始した天台宗触れる。808年(大同3)広智に伴われて比叡山に登り、以後最長の下で修業。814年(弘仁5)の年分得度者として得度。「摩訶止観」を学ぶ。817年、最澄の東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受け、また故郷下野国の大悲寺で円頓菩薩大戒を授けらえた。823年4月、延暦寺での菩薩大戒受戒にあたって教授師となり、ついで最澄の本願に基ずき12年の籠山に入る。828年(天長5)山内の諸僧の要職により半ばにして籠山を中止。以後、延暦寺から出て天台宗の布教に尽力。835年(承和2)請益僧として遣唐使に随行し渡唐することになり、翌年5月、遣唐使とともに難波を出帆。しかしこの年、および翌年の大宰府からの出発は、逆風にあって2度とも失敗した。838年6月、3度目の渡海に成功し、同年7月、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、南通県堀港・呂四の中間地帯に上陸。かって師僧最澄が登山した天台山に行くことが目的であったが、許可されず、ひそかに唐にとどまり求法の旅を続けることを決意し、こののち、847年まで足掛け10年間、苦難の求法に明け暮れた。なかでも会昌の廃仏という仏教弾圧の苦しみを現地で体験。その記録は「入唐求法巡礼行記」帰国後、天台宗の布教に専念し、天台座主となる。864年(貞観6)没。866年7月、慈覚大師諡号を贈られた。
「高僧名僧伝・鑑真」アマゾン電子書籍紹介。
鑑真(688年~763年)奈良時代中期唐僧。中国の揚州江陽県に誕生。戒師招請のために入唐していた栄叡、普照が初めて鑑真に渡航を要請したのは743年、揚州大明寺においてであった。鑑真の名声はすでに高かったが、彼は直ちにとかいを決意し、難色を示す弟子たちに「是は法事ののためなり。何ぞ身命を惜まん」といったと伝える。しかし渡航は容易ではなかった。第一回、第四回目は役人に妨害され、第二、三、五回目は風浪にさえぎられて、特に五回目は難渋を極めた。鑑真は失明し、栄叡は客死した。ようやく実現したのは753年(天平勝宝5)のことで、遣唐使大伴古麻呂の船に乗り、12月薩摩国阿多郡秋妻屋浦に到着。翌年2月に入京し、吉備真備より「今より以降、受戒伝律一に和上に任す」の勅を伝えらえたという。4月には聖武上皇以下多くの人々が鑑真より菩薩会を受け、賢璟、善謝らは旧戒を捨てて受戒した。755年、東大寺大仏殿の西に戒檀院を作り、自らは同寺唐禅院に住して戒律の普及に努めた。翌年5月大僧都となる。この抜擢は彼の医学に関する専門的知識による貢献と、「学業優富、戒律清浄にして聖代の鎮護にたたえ、僧尼の領袖」という高い評価によるものと思われる。また、757年(天平法宇元)には「仏法を護持することは木叉より尚きはなし」と言い、戒律を学ぶもののために、備前国に施入させられたことも、鑑真らへの期待によるものだろう。ところが同年8月「政事燥煩にして敢えて老を労せざれ」として大僧都の任を解かれる。慾758年には、故新田部親王の旧宅に「唐律招提」の名を立てて、寺院を建立しはじめる。760年~761年には東朝集殿が施入され、藤原仲麻呂の家からは食堂が寄進された。鑑真は伝律と唐招提寺の充実に力を尽くしたが、生前には金堂が完成しなかった。
「高僧名僧伝・行基」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍
行基(668年~749年)奈良時代の僧。河内国大鳥郡蜂田首虎身の長女古爾比売。15歳で出家し、24歳で高宮寺徳光を師主として受戒した。高宮寺は大和国葛城上郡高宮郷市大字西左味にあった寺で、金剛山の中腹にあたり、修行の根拠地になる山寺である。徳光は山林修行も習ったと推定される。一方、経典学習のため法興寺、薬師寺所属しにも、摂論系の瑜伽・唯識学を学習した。704年(慶雲元)山林を出て故郷に戻り、生家を改め家原寺とした。長年にわたる山林暮らしをやめて故郷に戻ったのは、三階教に出会ったからと考えらえる。三階教は隋の信行により開かれた民衆宗教で、山林修行を否定し、街頭宗教で山林信仰を否定し、街頭集落における民衆の宗教的共助活動を重視し、無尽蔵施と称する布施行により我が身と祖先の罪業が消滅すると説いた。その教籍は道昭が請来し法興寺禅院に安置した。行基はこれを読み、716年(霊亀2)以降、街頭に出て、民衆不況に乗り出した。出家の弟子には布施行を勧め、知識を結成して、布施屋の建設(9か所)架橋(6か所)、道路修理(1か所)、院と称する民衆的寺庵の建設(40か所)などを進めた。717年(養老元)政府から名前をあげてその行動を叱責され、722年にも抑圧を受けたが、翌年三世一身法が出ると、溜池の構築(15か所)灌漑溝の整備(6か所)・開田にも乗り出し、その行動が社会的に有益であることを立証した。730年(天平2)、731年には15もの院を建設した。これに伴い政府の彼に対する姿勢も変化し、731年在家の弟子の一部に出家が許されるという得点に浴したが、これは藤原不比等と四子と光明皇后の影響が考えられる。740年恭仁京の造営が始まると、大和・山城の国境の泉川(木津川)に泉大橋と泉橋院を建て為政者の注目を集めた。743年、聖武天皇による大仏建立事業が始まるとこれに協力し、745年大僧正に任じられた。749年、不況の拠点であった平城京の喜光寺で没した。
「高僧名僧伝・役行者」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
役行者(生没年未詳)役優婆塞、役行者という。飛鳥時代、大和葛城山に住んで呪術宗教家「続日本紀」文武天皇3年(699)5月24日条に、はじめ小角は葛城山に住み、呪術のあることで名を知られていたが、後年その才能を損ね妖惑をもって讒言したので、この日伊豆島に配流に処した。「日本霊異記」では孔雀王の呪法を修め、奇異魔験力を得た人とされ、鬼神を駆使すること自在で、もろもろの鬼神に対して大和の金峰山と葛城山との間に橋を架けよと強要した、ことから葛城山の一言主神が人に託して「役優婆塞が天皇を傾けようと謀っている」と讒言したので伊豆島に流されたとする。平安中期には金峰山山上が岳の金剛蔵王菩薩を祈りだしたといわれ、後期には大峰山、葛城山をはじめ諸国の霊山に踏み分けたとされる。修験道の開祖に仮託され、多様な伝説が生まれた。